第173話 本能の呪縛
濃い霧の中、一人で立ち尽くしているナナセを見て、カネルは警戒するように周囲の木々へと視線を巡らせた。
「……一人か?」
霧の向こうの気配を確かめながら、カネルはゆっくりとした足取りで近づいてくる。
その周囲には、使役妖精であるアザミたちの姿も飛んでいた。
かつてナナセが、第五部隊にいた頃に何度も何度も目にしてきた光景だった。
離れなくては。
全身の細胞と身体が、そう強く訴えかけていた。
考えるよりも先に、ナナセの背の羽が大きく広がる。
この場から飛び立とうとした、まさにその瞬間――。
「動くな」
ばし、と後ろから強く羽を掴まれた。
「……っう……」
息が詰まり、全身の身体がカチリと引きつるように強張る。
「なぜ答えない?」
頭上から、低く冷たい声が落ちてくる。
答えなければ。そう頭では思った。
けれど、その言葉を聞いた瞬間にはもう、ナナセの身体は本人の意思とはまったく関係なく、石のように固まって止まっていた。
指一本すら動かすことができない。
羽を強く掴まれているせいだった。かつて刻まれた使役妖精としての本能と主従の記憶が、ナナセの身体の自由を完全に奪い去っていた。
カネルはそんなナナセの固直した様子を見て、ふっと蔑むように笑った。
「今も昔も、ナナセは本当に、本能に抗えないな」
掴んでいた繊細な羽を、まじまじと眺める。
「所詮は使役妖精ってところか。あいつにもそうやって従っているのか?」
「……」
ナナセは何も言えない。
恐怖と身体の拒絶反応で、言葉を一つ返すことすらできなかった。
「……そのまま居ろ」
それだけを冷淡に告げると、カネルは興味を失ったようにあっさりと手を離し、そのまま部隊を率いて霧の奥へと歩き去っていった。
「……」
使役妖精のアザミも、少し離れた所からナナセのことを見つめていた。
この危険な戦場の真ん中で、動けないまま放置されるナナセの姿を見て、さすがに動揺したような複雑な顔をしている。
けれど、アザミにはどうすることもできなかった。
やがてアザミたちの小さな姿も、深い霧の中へと消えていった。
ナナセだけが、静まり返った戦場の真ん中に一人取り残された。
動かない。
逃げ出すことすらできない。
周囲の霧の向こうからは、不穏ないくつもの気配が確実に近づいてきている。
先ほどセレンに夢魔法を仕掛けてきた、敵ギルドの隊員たちだろう。
こちらへ向かって近づいてくる敵の魔力だけが、肌を通してはっきりと伝わってくる。
そして、攻撃の魔法がこちらへ放たれる独特の気配。
「……っ」
ナナセはぎゅっと、強く目を閉じた。
本能の縛りで身体がまるで動かない。
自分を守ることも。
この場から逃げ出すことも。
何もできない。
絶望が胸を満たそうとした、その時だった――。
「……ナナセ!」
聞き慣れた愛おしい声が、静寂と濃い霧を力強く切り裂いた。
次の瞬間――。
目の前で強烈な魔法の衝撃音が走り、セレンが手に握ったナイフでその攻撃を鮮やかに弾き飛ばした。
「……!」
ナナセが勢いよく目を開ける。
そこに、セレンが立っていた。
「っ……はぁ、どうした?」
セレンは驚いたように、胸を弾ませながらナナセを見下ろす。
戦場の真ん中で一人膝をつき、座り込んでいるナナセの姿が、彼にとってもよほど予想外だったのだろう。
「とりあえず……立てる?」
セレンの額には、びっしりと汗が滲んでいた。
肩で息が上がり、整っていた髪も乱れている。
いつもの冷静で余裕のある表情ではない。
誰が見てもわかるほど、強く焦っていた。
「ごめん、遅くなって」
セレンはそう言いながら、ナナセへ向かって優しく手を伸ばす。
自分を拘束し閉じ込めていた夢魔法を強引に解呪し、なりふり構わずナナセの気配を探し回っていたのだ。
ようやく、見つけた。
その安堵と焦りの感情が、セレンの表情からはっきりと読み取れた。
ナナセは、目の前のその顔をただじっと見つめた。
そして、セレンが来てくれたことで、ようやく自分の身体に自由が戻り、動くことに気付く。
「せ、セレンさん……」
慌ててその場から立ち上がる。
「大丈夫ですか……?」
自分の置かれた状況よりも先に、セレンを気遣う言葉が口をついて出た。
セレンは一瞬、意外そうに目を丸くする。
「俺は、大丈夫だけど」
そう言って、セレンの手はすぐにナナセの華奢な肩へ伸びた。
本当にそこに彼女が無事でいるのかを確かめるように、そっと優しく触れる。
「ナナセは?」
「私は……」
ナナセはセレンの問いに答えようとする。
けれど、先ほどカネルに羽を強く掴まれた時の、あの冷たい恐怖の感覚が残っていて、ほんの少しだけ身体が小さく震えた。
セレンの鋭い目が、その微かな震えを見逃さなかった。
「……何があった?」
静かな、けれど底知れぬ響きを持った声だった。
周囲の戦場の喧騒の中でも、不思議なくらいはっきりとナナセの耳に届いていた。




