第172話 霧中
「……っ」
走っていたセレンが、唐突に足を止めた。
それまで鮮明に見えていた周囲の木々の輪郭が、目の前で突然白く霞んでいく。
霧だった。
しかし、ただの自然現象の霧ではない。明らかに何者かの手によって展開された呪術。
魔力を濃密に帯びた白い霧が、まるで地面の底から次々と湧き上がるようにして、あっという間に深い森全体を覆い尽くしていった。
ほんの一瞬のうちに、セレンの視界のほとんどが奪い去られる。
「……」
セレンは警戒を強め、周囲を鋭く見回した。
音も、敵の気配すらも、この濃い霧に吸い込まれるようにして紛れてしまっている。
敵が今どこに立ち、どこから狙っているのかが全く分からない。
セレンの身体から伝わってくる強い緊張感が、直に肌へ伝わってくる。
その時だった――。
「……!」
セレンの視界の完全な死角から、何かが凄まじい速度で伸びてきた。
セレンがそれに気づき、振り向こうとしたその瞬間。
彼の身体に強い衝撃が走る。
「っ……!」
その激しい反動と同時に、胸元のポケットから何かが外へと弾き出された。
「え……」
ナナセだった。
ポケットの中に納まっていた小さな身体が、浮力と衝撃でふわりと宙へ投げ出される。
「セレン、さん……?」
何が起きたのか分からず、驚いて振り返る。
けれど――。
そこにいるはずのセレンの姿は、すでにどこにもなかった。
「……え?」
彼の魔力も、存在を示す気配すらも一切感じられない。
ナナセは、その異常事態の正体をすぐに理解した。
夢魔法――。
相手の意識と身体をそのまま夢の世界の中へ閉じ込め、現実の動きを完全に封じ込める強力な精神拘束魔法。
セレンは、あの一瞬の奇襲でそれを受けてしまったのだ。
セレンだけが何処かへ連れ去られ、その場に取り残されたナナセは、夢魔法の発動時の反動で弾き出された勢いのまま、宙でうまく体勢を立て直すことができなかった。
ふわりと浮いた身体が、濃い霧の中をさらに遠くへと流されていく。
なんとかバランスをとろうと広げた羽に魔力を通し、身体の大きさを元の姿へと戻しながら、どさりと地面へ叩き落とされた。
「……っ、痛……」
ナナセは顔をしかめながら、ゆっくりと身体を起こす。
幸いなことに、骨が折れるような大きな怪我はない。
けれど――。
セレンとは完全に離れ離れになり、はぐれてしまった。
「……戻らないと」
ナナセは不安を押し殺し、必死に周囲を見回した。
こんな見通しのきかない場所に一人で佇んでいるのは危険だ。
まずはセレンを探すか、フィリスたちのいる場所まで戻って合流しなければ。
そう考えたナナセは、意識を研ぎ澄ませて魔力を集中させる。
周囲の状況を探るべく、広域の視界を得る遠視魔法を展開しようとした、まさにその時だった。
「……ナナセ?」
霧の奥から、不意に声が届いた。
ナナセの身体が、ぴたりと固まるように止まった。
聞き覚えのある、耳に嫌というほど残っている声。
忘れようとしても忘れられるはずもない声だった。
「……っ」
恐怖と衝撃で、喉が引きつるように小さく震えた。
ナナセは恐る恐る、ゆっくりと声のした方へ振り返った。
白く揺らめく霧の向こう側から、複数の足音とともに人影が現れる。
その先頭に立っていた人物の顔を認識した瞬間――。
ナナセの顔から、一気に血の気が引き失われていった。
「カネル、様……」
そこに立っていたのは、かつて自分を所有し使役していた男、カネル率いる第五部隊の姿だった。




