第168話 満月に届く距離
二人は食事を終えると、そのまま中庭へ向かった。
少し肌寒さを感じるようになった夜の中庭は、一際しんと静まり返っていた。
昼間よりもずっと澄み渡った空気の中、中央にある噴水の水音だけが小さく響いていた。
見上げれば、すでに満月は夜空高くに顔を出している。
中庭へ足を踏み入れたナナセは、ふと立ち止まって月を見上げると、ふう、と小さくひとつ息を吐いた。
そして、背の羽をゆっくりと広げる。
月明かりを浴びた羽が、かすかに光を反射して煌めいた。
次の瞬間――。
羽の支脈に沿うように、淡い黄金色の光がゆっくりと広がっていく。
細い光の筋が一本、また一本と鮮やかに浮かび上がり、やがて羽全体が静かな月夜の中で幻想的に輝き始めた。
まるで、羽の中に小さな星空がそのまま閉じ込められているようだった。
セレンは少し離れたところから、その神秘的な姿を黙って見つめていた。
この満月の羽を見るのは、これで二度目のこと。
それでも、目が慣れてしまうようなことはなかった。
「……綺麗」
思わず、小さな吐息とともにそんな言葉が口からこぼれ落ちる。
ナナセはその声に気付いているのかいないのか、ただ静かに満月を見上げたまま、気持ちよさそうに目を閉じている。
淡い光を纏った羽が、吹いてきた冷たい夜風に優しく揺れていた。
セレンはそんなナナセから、ふと視線を外した。
そして、もう一度。
今度は光る羽ではなく、彼女の横顔をそっと盗み見る。
月明かりに照らされた、柔らかな白い髪。
静かに伏せられた睫毛と、穏やかで安心しきった表情。
その横顔は、以前この同じ中庭で初めて満月の羽を見た時とは、もうまるで違って見えていた。
あの頃は、その美しさと幻想的な姿にどこか遠い世界の存在のように感じられ、手を伸ばすことすらためらっていた。
それが今は――。
手を伸ばせば、すぐそこに居る。
そう思い至った瞬間、セレンの胸の奥が不意に跳ねた。
「……っ」
セレンは思わず、小さく息を止める。
自分でも驚くほど、胸の中の心臓が音を立てて鳴っていた。
ナナセはセレンの動揺に気づく様子もなく、ただ穏やかに月を見上げている。
ただその姿を見つめているだけなのに、なぜだか妙に落ち着かない感覚が胸を満たしていく。
セレンは己の鼓動を誤魔化すように、ゆっくりと視線を夜空の月へと戻した。
けれど、すぐ隣で淡い黄金色に煌めき続けるナナセの気配と光が、どうしても視界の端から消えてくれなかった。
セレンは、ふと、あの夜のことを思い出した。
夏が始まる、ずっと前。ナナセが熱を出した後の、夜中の寝室での出来事。
照れたように自分を見上げていたナナセの姿。
その表情を見た瞬間、何かを考えるよりも先に、衝動のまま彼女の額へと口付けを落とした自分の行動。
あの時、自分の胸の中で確かに生まれた衝動的な感情。
あれはいったい何だったのか。
答えを出さないまま、ずっと名前を付けずに胸の奥深くにしまい込んでいた。
けれど――。
ここ最近、ナナセの姿を見ている時に感じていたこと。
ただ当たり前のように自分の隣にいてほしいと思うこと。
自分以外の誰かに彼女が必要とされると、理由もなく妙に胸が落ち着かなくなること。
部屋で自分の帰りを待っていると知れば、少しでも早くそこへ戻りたいと思うこと。
そしてあの森の中で、ナナセが自分から離れていってしまうかもしれないと思った時に感じた、あの胸を刺すような寂しさ。
それら全てが、同じ一つの感情だったのだと気付いてしまった。
「……あ」
胸の中で、散らばっていた何かが静かに繋がった。
点だったものが一本の確かな線になることを、もう止めることは出来なかった。
セレンは静かに、小さく息を吐き出した。
けれど、それを今すぐ言葉にして口に出す必要はない気がしていた。
まだ、この穏やかで愛おしい時間の中に、二人で揺られていたかった。
「ナナセ」
「はい?」
不意に名前を呼ばれて、ナナセが不思議そうに首を傾げる。
セレンは少しだけ言葉を迷ったあと、柔らかく口元を緩めて笑った。
「……やっぱり綺麗だね」
「……ふふ。そうですか?」
ナナセがどこか気恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑む。
その真っ直ぐな笑顔を見て、セレンも小さく目を細めた。
そして、吸い寄せられるように自然と手を伸ばす。
淡い黄金色の光を纏った繊細な羽へ、そっと指先を触れさせた。
羽の支脈に沿って静かに流れる魔力が、指先の下でかすかに揺れているのが伝わってくる。
「……っ」
ナナセは少しだけ身体を小さくこわばらせた。
触れられるとどうしてもくすぐったいような、胸の奥が落ち着かないような感覚がある。
けれど、自分の羽を撫でるセレンの手つきはどこまでも優しかった。
だから、その手から逃げるようなことはしなかった。
ただ少しだけ頬を朱に染めて、静かに月を見上げる。
セレンも何も言わず、その光る羽をそっと撫で続けた。
淡く優しい黄金色の光が、夜の空気の中で二人の間に静かに揺れていた。




