第166話 昼下がり
ナナセは衣替えの手を一旦止めると、静かにキッチンへ向かった。
しばらくして、湯気の立つカップをそっと両手で持って戻ってくる。
「どうぞ」
「ん?」
キサの前に、温かなハーブティーが静かに置かれた。
「……ありがとう」
キサは目の前に出されたカップを見つめ、それからナナセの顔を見た。
そして、ふっと嬉しそうに口元をほころばせる。
「すっかり妖精っぽくなったね」
「……え?」
ナナセが不思議そうに首を傾げた。
キサはカップに手を添えながら、少しだけ遠くを見るような目をした。
「アルカに来たばっかりの頃もさ」
一度、言葉を切る。
「治療を受けるために医療室にいた時も。ナナセって、なんていうか……人形みたいだったから」
「……」
ナナセは黙ってキサを見つめた。
「自分から何かをするっていうより、言われたことをそのままやって。痛くても、苦しくても、嫌だって言わないし」
キサの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「笑うこともほとんどなかったしね」
ナナセは何も言えなかった。
あの頃の自分を思い出せば、どれも否定できないことばかりだった。
言われたことだけを機械のようにこなし、感情を押し殺して生きていた日々。
「だからさ」
キサは手元のハーブティーへ視線を落とした。
「こうやって自分から誰かにお茶を淹れてあげたり、誰かの服を片付けたり。そういうのを見ると……ああ、ちゃんとらしくなったんだなって思うんだよ」
「……らしく」
ナナセが小さくその言葉を繰り返す。
「うん」
キサは穏やかに笑った。
「ちょっとずつ、自分の好きなこととか、したいこととか。そういうのが出てきたんだなって」
ナナセは少しだけ目を伏せた。
そして、衣替えの続きをしようとする自分の手元を見つめる。
「……そう、なんでしょうか」
「そうだよ」
キサは迷いなく答えた。
「少なくとも、今のナナセは人形には見えないよ」
その言葉に、ナナセはほんの少しだけ目を丸くした。
やがて――。
「……ふふ」
小さく笑った。
キサはそんなナナセを見て、さらに嬉しそうに笑う。
「ほら。そういうところ」
「……?」
ナナセは意味が分からないまま首を傾げたが、それでもどこか胸の奥が嬉しくなって、もう一度小さく微笑んだのだった。
◇
ナナセが衣替えを終え、キサと他愛のない話をしていた頃だった。
奥の寝室の方から、ガサゴソと小さな物音が聞こえてくる。
「……お」
キサがそちらへ目を向けた。
「やっと起きた」
壁に掛けられた時計を見ると、針はすでに午後二時を指していた。
「寝すぎじゃない?」
そう笑っているうちに、ガチャリと寝室の扉が開く。
「……」
出てきたセレンは、いつも通りの寝起きの顔をしていた。
髪は少し乱れていて、まだ半分眠っているような目つきをしている。
リビングにキサがいることに気付くと、ちらりと視線を向けた。
「……キサじゃん」
「おはよ。いや、もうこんにちはだけど」
「……寝すぎた」
セレンはそれだけ呟くと、ソファに座るナナセの隣へどかっと身体を沈めた。
「頭いてぇ……」
眉間に皺を寄せたまま、静かに目を閉じる。
「……大丈夫ですか?」
隣からナナセが心配そうに声をかけた。
その声にセレンがゆっくりと目を開ける。
そして、ナナセの手元にあるものへ視線を落とした。
「……それ、ちょうだい」
「え?」
返事を待つより先に、セレンの手が伸びた。
ナナセが持っていたハーブティーのカップを、その手ごとすっと引き寄せる。
「……あ」
ナナセが目を丸くする。
そのままセレンはナナセの手を添えた状態でカップを口元へ運び、一口飲んだ。
「……ふぅ」
満足したように息を吐くと、再び目を閉じてしまった。
ナナセは、完全に固まっていた。
「……ふっ」
そんな二人を眺めていたキサが、とうとう吹き出す。
「俺もいるんだけど」
「……なにが?」
セレンがキサを見る。
「別にいいでしょ」
何でもないことのように言いながら、ふわりと欠伸をした。
「いや、いいけどさぁ」
キサは肩を揺らして笑った。
「すっかり仲良しじゃん」
「……」
ナナセの頬がじわりと赤くなる。
セレンはというと、そんなナナセに気付いたのか、少しだけ目を逸らした。
「……別にもともと仲悪くないけど」
セレンが、キサにぼそりと告げる。
「それはそうだけどさ」
キサは面白そうに笑った。
隣では、ナナセが頬の熱を誤魔化すように、ふと衣装室の方へ目を向ける。
「あ、衣替え、しておきました……」
「え?」
セレンが顔を上げる。
「俺の?」
「はい。今日するって言っていたので……」
「まじで助かる……」
セレンは驚いたように目を瞬かせ、それからほっとしたように息を吐いた。
「ありがと、ナナセ」
「いえ」
ナナセが小さく笑う。
その様子を見ていたキサが、部屋の中をぐるりと見回した。
「去年のセレンの部屋とは大違いだなぁ」
「……去年?」
ナナセが首を傾げる。
「うん。去年の今頃も交流戦の準備で忙しかったんだけどさ」
キサは思い出すように笑う。
「夏の制服と冬の制服がそこら中に置きっぱなし。書類も机に積みっぱなし。脱いだ服もその辺に転がってて……」
「言うな」
セレンがソファに沈んだまま、弱々しく遮る。
「すごかったよ。足の踏み場がないって、ああいうことを言うんだなって思った」
「……」
ナナセはなんとなく部屋の中を見回した。
今は、日頃片付け続けていた自分の手によって、衣服も書類もあるべきところに置かれていた。
テーブルには果物があり、ハーブティーも置かれている。
以前の散らかりがちだった部屋とは違って、いくらか小綺麗な部屋になっていた。
それでもナナセは、去年のその光景を見たわけではないのに、なぜか容易に想像できてしまった。
「……なんとなく、想像できます」
「でしょ?」
キサが笑う。
「セレン、自分の身の回りのことになると意外と適当だから」
「セレンさん、忙しそうですもんね」
ナナセがそうフォローすると、キサは笑ってナナセを見る。
「ほら、また甘やかしてる」
「え?」
「そんなこと言ってると、どんどんダメ人間になっちゃうよ」
「……」
セレンはソファに身体を沈めたまま、眉間に皺を寄せる。
「うるさい……」
力のない否定だった。
「ほら、もう反論する元気もない」
「……頭に響くからやめて」
「自業自得じゃん」
「……」
セレンはそれ以上何も言わず、静かに目を閉じた。
ナナセはそんなセレンを見て、思わず小さく笑う。
キサもつられるように笑った。
忙しさに追われる普段の姿からは少し離れた、休みの日のセレン。
その隣にナナセがいて、キサがいて。
去年とはまるで違う整った部屋に、穏やかな時間が流れていた。




