第164話 月下の記憶
「ふふ、いやぁ、ナナセも大変だね」
ルナがカウンター越しに、くすくすと意地悪そうに可笑しがって言った。
「……だから何?」
セレンはまた怪訝そうに眉を寄せて聞き返す。
ルナはその楽しそうな笑みを崩さないまま、煽るように言葉を重ねた。
「こういうのが、無自覚たらしっていうのかなぁ」
「は?」
セレンは全く意味が分からないといった顔で首を傾げる。
そして、何気なくふと自分の隣へと視線を向けた。
そこには、先ほど果実を口に入れてもらったまま、顔を真っ赤に染めて縮こまっているナナセの姿があった。
「……」
セレンの動きが、ピタリと固まった。
ようやく自分が何をしてしまったのかを理解したらしい。
「……!」
目が合った瞬間、ナナセは慌てたようにバッと視線を明後日の方向へと逸らした。
そのあまりに分かりやすい反応を目にして、セレンの頬にもじわりと熱が集まっていく。
「……そういうんじゃない」
さっきまでの勢いを完全に失い、セレンは力なくルナの言葉を否定した。
「っくく……」
「ルナ、笑わないで」
「っく……無理だろ」
ルナは込み上げる笑いを必死に堪えながら、楽しそうにグラスを並べている。
ナナセはまだ恥ずかしさで顔を上げることができない。
けれど、隣にいるセレンもまた、少しだけ気まずそうにしている気配だけははっきりと伝わっていた。
二人の間に、なんとも言えない甘く静かな照れが落ちていく。
その初々しい様子を見たルナは、ますます堪えきれなくなったように楽しそうに吹き出した。
◇
「じゃあ、おやすみ」
終始楽しそうに二人をからかっていたルナと別れ、二人はダイニングを後にした。
先ほどまで照れに包まれていたセレンだったが、廊下へ出てしまえばいつもの調子に戻っていた。
ナナセの手をそっと引き、歩調を合わせて並んで歩いていく。
静寂の中で足音だけが廊下に小さく心地よく響いていた。
途中、何気なく中庭を横切ると、セレンがふと足を緩め、静かな夜空を見上げた。
「……明日、満月かな」
「そうですね」
ナナセもセレンにつられるようにして視線を空へと向ける。
雲の切れ間に浮かぶ月は、もう随分と満ちて丸くなっていた。
「羽が綺麗になる日だね」
セレンが、少し嬉しそうに笑う。
その言葉に、ナナセはある出来事を思い出していた。
初めてこの同じ中庭で、セレンに自分の羽を見られたあの夜。
あの日自分を見たセレンの瞳は、どこか苦しそうで、悲しそうだった気がする。
そしてそのまま、そっと抱きしめられた。
あの頃の自分はまだ、今ほどセレンのことを心から信頼しきれてはいなかった。
抱きしめられたことにも戸惑うばかりで、この人の隣が自分にとって何よりも安心できる場所になるなんて知る由もなかった。
「……懐かしいですね」
「ん?」
「ここで、初めて羽を見た時のこと」
「ああ……」
セレンも当時のことを思い出したように微笑んだ。
「懐かしいね」
そう言って、繋いでいた手を少しだけ揺らした。
そしてその時――。
セレンの反対側の手の指先が、ナナセの背で揺れる羽へと伸び、そっと触れた。
昼間、フィリスの手によって掴まれた場所。
セレンの指先が、そのあたりを確かめるように、優しく撫でる。
「……痛くなかった?」
小さな気遣いの声だった。
「……いえ。フィリスさんは優しかったので」
「そっか。よかった」
セレンは安堵したように呟く。
それでも、セレンの指先は羽から離れようとはしなかった。
羽はナナセにとって、魔力が集まる繊細な場所だ。
触れられると、身体の奥までわずかに痺れるような感覚が響く。
くすぐったいような、胸の奥がそわそわするような、不思議な感覚。
「……っ」
ナナセはたまらず、少しだけ身体を小さく捩った。
「くすぐったい?」
セレンがその反応に気づいて、小さく笑う。
「……少しだけ」
「ごめん」
言葉ではそう言いながらも、セレンの手つきは変わらずどこまでも優しかった。
ナナセはその温かな手を振り払おうとはしなかった。
自分の羽に触れているのが、他でもないセレンの手であることが、どこか不思議で温かかった。
以前の自分なら、羽に触れられることそのものが怖かったかもしれない。
けれど今は――。
少しくすぐったくて、少しだけ落ち着かない。
それでも、嫌だとは思わなかった。
「……セレンさん」
「ん?」
「明日……満月、また見ますか?」
セレンは少しだけ目を丸くし、それからふっと笑った。
「もちろん」
その迷いのない返事を聞いて、ナナセも嬉しそうに微笑んだ。
澄み切った秋の夜空には、明日の満月を静かに待つ月が、二人を優しく照らすように浮かんでいた。




