第161話 刻まれたもの
「……実際のところさ。カネルは、そうしてたんでしょ?」
その、避けては通れない直球の問いかけに、ナナセの指先がぴくりと動いた。
セレンの手を握りしめたまま、ナナセはフィリスの顔を見つめ返す。
「……」
肯定も否定もないまま。
言葉の答えは、すぐには返ってこなかった。
けれど、その重苦しい沈黙だけで十分すぎるほどの答えだった。
それに、先ほどのナナセが見せた、一連の身体的な反応。
羽を掴まれ、たった一言だけ命令を下されただけで、抗う間も抵抗の余地もなく身体が勝手に動いてしまった。
確かに、魔力が集中する羽を直接掴むことで強力な命令を通すことはできる。
けれど、ナナセほどの力のある妖精ならば、本来ならどれほど強い命令であっても、もう少し抗おうとする意志の抵抗があってもおかしくはないはずなのだ。
それなのに――。
彼女の身体は、あまりにも素直に、そして従順に動いてしまった。
まるで、その強制的な命令に従うこと自体を、長い月日の中で肉体が残酷なまでに覚え込まされてしまっているかのように。
「……そっか」
フィリスはそれ以上、過去の傷口を抉るような追及はしなかった。
暗いナナセの過去をここで掘り返すことなど、何の意味もない。
フィリスは少しだけ真面目な眼差しでナナセを見つめる。
「ナナセも、交流戦中は気を付けてね」
「……はい」
消え入りそうな、小さな返事。
ナナセの手は、セレンの手を掴んだまま離そうとしなかった。
その小さく震える指先に、ぎゅっと少しだけ強い力が込められる。
フィリスはそれを見ると、ふっと口元を和らげた。
「自分の意思で嫌だと思ったことまで、言うことを聞かなくていいんだから」
ナナセは言われた意味を胸の中で反芻するように、少しだけ目を伏せた。
そして、もう一度――。
「はい」
今度は、先ほどよりもしっかりと返事をした。
隣に立つセレンは何も言わず、その震える指先を静かに握り返していた。
◇
「……ナナセが羽を掴まれたらさぁ、もうどうにもできないってこと?」
今まで黙って様子を伺っていたソラトが、ふとナナセに問いかけた。
ナナセを責めるような声音では決してない。
これから迫る戦場に向けて、ただ純粋に知っておきたいという真摯な声だった。
ナナセは少しだけ考えてから、素直な自分の感覚を伝えた。
「……魔力が、まだ足りなくて」
背で揺れる羽へと、少しだけ悔しそうに視線を落とす。
「抵抗できる感じが、しないんです」
その弱々しい言葉を聞いた瞬間、セレンの表情がわずかに固まった。
セレンの頭の中に、かつての光景が駆け巡る。
以前、ナナセが鼻血を流して倒れていたこと。
高熱を出して苦しそうに寝込んでいたこと。
そして、診療処のキサから言い渡された言葉――。
命に関わるような身体そのものの怪我や衰弱は、治療と休養でほとんど回復している。
けれど、過酷な過去によって削り取られてしまった根本的な魔力の蓄積までは、未だに元の状態へとは戻りきっていないのだ。
セレンは、ナナセの羽を見つめ、胸の奥底がきゅっと締めつけられた。
「……困っちゃうね」
ヒヨリも、いつもの明るい冗談を消し、珍しく真剣な表情で呟いた。
「交流戦って、こういうこと普通に狙われるよね」
ソラトが重々しいトーンで言葉を続ける。
「主人の近くにいる妖精を、先に引き離すとか」
「うん」
フィリスも深く静かに頷いた。
「補助要員として主人の側にいる妖精を孤立させるのは、戦術としては十分ありえる」
ナナセは会話に割り込むことなく、黙ってその話を聞いていた。
交流戦は、普段の任務とはまるで異なる。
対峙する敵も、アルカの戦術や妖精の特性を熟知している人間ばかりだ。
「ナナセが逃げる術を失った時に」
ソラトが、最悪の盤面を想定しながら少し考え込むように言った。
「周りに助けられる人がいなかったら……」
そこで、言葉がピタリと途切れた。
その先にある残酷な結末を想像し、誰もすぐには答えを口にすることができなかった。
誰も発言しない、重く静かな沈黙がその場に落ちた。
ナナセ自身も、その意味をしっかりと理解しているようだった。
「……大丈夫」
セレンが、静かに、けれど力強く告げた。
けれどその言葉は、不安がるナナセだけに向けられたものではなかった。
他でもない、セレン自身が己の心へ固く言い聞かせるための誓いでもあった。
「その状況にならないようにする」
フィリスがセレンの瞳をじっと見つめる。
セレンの瞳には、もう迷いも恐怖の影も残っていなかった。
ナナセの指先が、セレンの温かな掌の中で小さく、けれど安心したように握り返す。
「……はい」
ただ一言、それだけを。けれど全幅の信頼を込めて返したのだった。




