第160話 力で使役すること
「大丈夫」
セレンは静かにそう呟くと、ナナセの目線に合わせてゆっくりと目の前に屈み込んだ。
立ち上がっていた視線の高さをぴったりと合わせるようにして、まっすぐにナナセの瞳を見つめる。
「もう、そんなことは二度とさせないから」
静かに、けれど揺るぎない力強さを秘めた声だった。
ナナセの不安を払いのけるように深く優しく落ちたその言葉には、一切の迷いも曖昧さも存在しなかった。
セレンの手がそっと伸び、ナナセの小さな頭へと触れると、ゆっくりと髪を撫でていく。
ナナセはセレンの温かな掌の感触に包まれながら、目を伏せた。
過去の虚しい記憶によって胸の奥底にくすぶっていた重く冷たい塊が、ほんの少しずつ解けて溶けていくのが分かった。
「……はい」
そして、固くなっていた表情を和らげ、ふっと穏やかに微笑んだ。
それから、何かを確かめるように少しだけ視線を上へ向ける。
「でも……」
「ん?」
「セレンさんたちのためなら」
ナナセはセレンの目を見つめ返し、小さく可憐に笑った。
「力になりたい、というのも本心です」
セレンの手が、ナナセの髪を撫でていた動きを一瞬だけ止めた。
「……そっか」
「はい」
ナナセは今度は迷いを振り払うように、少しだけ嬉しそうに頷いてみせた。
あの頃の自分とは、もう何から何まで違うのだ。
自分自身の心が、そうしたいと強く望んだから。
かけがえのないセレンたちの隣に、これからもずっと一緒にいたいから。
そのために、自分に与えられたこの力を使いたい。
これから始まる大規模な交流戦という過酷な戦場に立つことも、きっと昔とは全く違う意味を持つものになるはずだ。
セレンはそんなナナセの姿をまっすぐに見つめ、やがてふっと笑みをこぼした。
「じゃあ……もしもの時はお願いしようかな」
「はい」
「でも、交流戦は無理しないでね」
「……はい」
「今の間、怪しいなぁ」
セレンは困ったように眉を下げつつ、もう一度愛おしむようにナナセの頭を撫で下ろした。
二人の微笑ましいやり取りを少し離れた場所で見ていたフィリスたちも、どこか誇らしげにふっと口元を緩めていた。
ナナセがかつてのような不本意な形ではなく、自分の意思で力を使おうとしていることが、その場の全員に伝わったのだろう。
けれど――ふと。
フィリスが腕を組み、どこか探るような眼差しでセレンへ視線を向けた。
「でもさ」
「ん?」
「セレンって、ちゃんとしたナナセの使役の仕方、知らないでしょ?」
「え?……まぁ……」
不意を突かれたセレンは、否定することができなかった。
確かに、自分は使役妖精としてのナナセの扱い方について、最低限必要なこと以外は何も知らない。
そもそも最初から、ナナセを都合よく使役するつもりなど毛頭なかったのだから。
危険から守ること。ナナセが無理をしていないか気を配ること。
セレンが意識していたのはそれだけであり、主人としての使役のノウハウなど、ほとんど学ぶ機会すら持っていなかった。
フィリスは表情から可笑しさを消し、少しだけ真面目な顔になる。
「一度、見ておいたほうがいいだろうね」
そう淡々と口にすると、躊躇なくナナセの前へと歩み寄っていった。
ナナセはその瞬間、わずかに身体を強張らせた。
普段の穏やかで頼もしいフィリスの雰囲気とは、違う。
ほんの少しだけ――かつての主人であるカネルを思い出させるような、逆らうことを許さない冷えるような圧倒的な空気。
「……!」
危機感を察知したナナセの背の羽が、警戒でわずかに細かく揺れる。
その怯える様子を目にしつつも、フィリスは迷うことなくすっと腕を伸ばした。
そして――。
ナナセの繊細で小さな羽を、すっと掴み取った。
「……っ」
ナナセの身体が弾かれたように固く強張った。
フィリスは彼女の羽を掴んだまま、静かに、そして機械的に淡々と命令を告げる。
「ナナセ」
ほんの一拍の静寂。
「座れ」
「……ぁ」
まさに、その瞬間だった。
ナナセの瞳から、一瞬にして全ての感情と意思がすっぽりと抜け落ちたように見えた。
掴まれた羽から強烈な魔力の干渉が頭脳へ直接流れ込み、フィリスから一切の目を離すことができなくなる。
彼女の身体が、自分自身の意思や感情とは全く無関係に、勝手に動き出す。
「……はい」
ぺたり、と。
ナナセは言われるがまま、その冷たい地面へと虚ろな動作で座り込んだ。
「おい」
セレンの低い声が、その場に響き渡り、フィリスの手をナナセから振り払っていた。
「何してんの」
「ごめんごめん」
手を弾かれたフィリスは苦笑いを浮かべて両手を軽く上げてみせる。
けれど、その視線は地面に座り込んだまま微動だにできないナナセへと向けられていた。
「でもほら、ナナセを解かないとだよ」
「……!」
ハッとしたセレンがすぐさま視線を下へ落とす。
ナナセは座り込んだ姿のまま、自分の力で立とうとする気配すら見せない。
いや――立てないのだ。命令の束縛によって、肉体の自由が完全に奪われている。
セレンはすぐさま膝を折り、ナナセの目線の前へと必死に屈み込んだ。
「ナナセ」
命令の主を失い浮ついていたナナセの視線が、じっとセレンの顔へと向けられる。
「ごめん。もう立っていいよ」
「……」
その優しいセレンの声が脳へ届いた瞬間――。
ナナセは「はっ」と弾けたように息を呑んだ。
まるで、眠らされていたところから急に目を覚ましたかのように、彼女の身体に自由が戻る。
「……あ」
ゆっくりとぎこちなく立ち上がる。
そして――。
そのままセレンの手を、確かめるように掴んだ。
ぎゅっと、二度と引き離されまいとするような強い力だった。
セレンは何も言わず、その震える小さな手を包み込むように握り返した。
フィリスは寄り添い合うそんな二人を静かに見つめ、少しだけ固くなっていた表情を和らげる。
「今のが、使役の命令」
セレンが問いただすような目をフィリスへ向ける。
「羽は、妖精の魔力が特に集中して溜まっている場所なんだ」
フィリスはナナセの背にある繊細な羽へと静かに視線を向けた。
「だから、そこを掴んで命令を通す。知識がある人間なら、誰であれこのやり方で妖精を強制的に操れる」
「……」
「しかも、かなり強い命令になる」
フィリスは少しの間を置いて、セレンの瞳をまっすぐに見つめ返した。
「だから、セレンは知っておいたほうがいい」
セレンは黙り込んだまま、隣で自分にしがみつくナナセを見つめた。
ナナセはまだ先ほど味わった恐怖と戸惑いを残した様子で、強くセレンの手を握りしめている。
自分の意思とは無関係に身体が操られたという異質な感覚が、まだ彼女の身体に残っているのだろう。
自分以外の何者かに理不尽に動かされたという事実を、セレンは静かに、けれど重く受け止めていた。
「……分かった」
低く絞り出された、短い返事。
信頼によって、そこに存在する力を貸してもらうこと。
そして、そこに存在する弱みを利用して、ナナセ自身を奴隷のように従わせること。
その二つは、形は似ていても根本から全く別の、決して許されざる行為なのだと――。
セレンは、胸を削られるような痛みのなかで明確に理解したのだった。




