第155話 遣うもの
突然、セレンの制服から飛び出して自分の攻撃魔法を壊したナナセの存在によって、襲撃してきた森の妖精は大きな衝撃を受け、その場の動きをわずかに止めた。
まさか、人間のすぐ側に自分と同じ妖精が寄り添っているとは思ってもみなかったのだろう。
森の妖精は、警戒を強めながらゆっくりと視線を下へと落とす。
そこには、攻撃の衝撃を受けて倒れたセレンと、その胸元に抱えられるようにして守られているナナセの姿があった。
小さな身体は、急な事態に確かに微かに怯えて震えていた。
それでも、セレンを庇うようにして、ぎゅっと制服を握りしめてその背の羽を大きく広げている。
黄金色の光が、その繊細な羽の縁で揺らめくように淡く脈打っていた。
森の妖精はしばらくの間言葉を発することもなく、ただ茫然とナナセの姿を見つめていた。
やがて、静かに重い口を開く。
「……こっちに居たのか」
その声には、隠しきれない驚きが滲み出ていた。
人間の服の中に、妖精がいる。
それ自体が、野性で生きていた妖精にとっては全くの予想外だったのだ。
妖精は、先ほどまでセレンへ向けられていた攻撃的な表情を、少しだけ戸惑うように緩めた。
「お前も、あっちと同じなのかと思った」
その思いがけない言葉に、ナナセの黄金の羽がわずかに揺れる。
森の妖精はセレンの背後、木々の深い隙間から覗く森の奥へと一瞬だけ鋭い視線を向けた。
そこには、別のルートを巡回していた部隊――第五部隊の姿があった。
先ほどの鳥たちの騒ぎは、この森の妖精が彼らの隊列を襲撃していたことが原因だったのだ。
妖精の中には、人間という種族を根深く敵視し、ひどく忌み嫌う者も少なくない。
人間たちの都合で聖域である自分たちの土地へ足を踏み入れ、妖精を力で縛って使役し、その固有の力を都合の良い道具として扱う人間を激しく憎む者。
この妖精もまた、そうした人間への深い憎悪を抱く一人だった。
だからこそ、セレンから微かな妖精の気配を感じ取った時――。
この目の前の人間のもとにも、哀れな妖精がいるのだと思い込んだのだ。
少なくとも、この妖精は同族が囚われていると信じて疑わず、ナナセを助け出そうとしていたのだった。
「人間に使われている妖精だと思ったんだが」
森の妖精は、じっとナナセを見つめ直す。
「……あっちと、お前は違うのか」
先ほど第五部隊のもとで目にしてきた、血眼になって主人の命令に盲従し、強制的に力を振るわされている使役妖精たち。
目の前のナナセのことも、あれらと同じように心まで縛られた存在なのだと思っていた。
けれど――。
目の前にいるナナセは、それとは違っているようだった。
誰の命令でもなく、己の意思でセレンの前に立ちふさがっている。
主らしきこの人間を、ただひたすらに守り抜くために。
ナナセは問いに対して何も答えなかった。
ただ、森の妖精の存在を静かに、けれど強く見つめ続けている。
その透き通った瞳からは、先ほどまで宿っていた怯えの色が、少しずつ完全に消え去っていった。
そして――。
ナナセはゆっくりと、凛として羽を大きく広げた。
淡く神秘的な黄金色の光が、再び彼女の羽の周囲に静かに灯る。
決して周囲を威嚇するような、激しく眩い光ではない。
けれど――。
目の前の妖精にとっては、それが何よりも明確で、逃れようのない警告に見えた。
そうして、ナナセは静かに言った。
「……あっち、いって」
いつもの穏やかで淑やかなナナセからは到底想像もつかないほど、冷ややかな声だった。
森の妖精の瞳が、大きく見開かれる。
一瞬――。
周囲の森の空気そのものが重く変質したかのように感じられた。
ナナセから解き放たれた魔力が、ほんの少しだけ静かに膨らむ。
ただ、それだけだった。
それだけの変化に過ぎないのに――。
森の妖精が持つ野生の本能が、警鐘を鳴らしていた。
この相手には、絶対に敵わない。
目の前に存在する妖精は、自分がこれまで知っていたどんな使役妖精とも、根本から格が違う。
妖精として秘めている、圧倒的で純粋な力。
それだけではない。
言葉では表現できない、もっと深い次元にある「何か」を、本能が恐ろしいまでの存在感として感じ取っていたのだ。
「……っ」
あまりの圧力に、森の妖精は無意識のうちに一歩後ずさった。
ナナセはそれを追おうとはしない。
ただ、羽を大きく広げたまま、相手を静かに見つめ続けていた。
森の妖精は、耐えかねたように視線を逸らした。
「……っ、申し訳ありません」
そう小さな声で呟くと、森の鬱蒼とした奥深くへ身体を向けた。
姿を消す直前――。
彼女はもう一度だけ、振り返ってナナセを見た。
その瞳には、先ほどまでの激しい敵意とは違うものが宿っていた。
深い戸惑いと、ほんのわずかな恐怖に近い畏れ。
そして、自分の知らない高貴な妖精を前にした大きな驚き。
やがてその姿は、木々の深い影の向こうへと完全に消え去っていった。
森に、再び静寂が戻る。
ナナセの羽から、黄金色の光の粒子がひとつ、ふわりと名残惜しそうに空へ零れ落ちた。
その光が静かに消えていくのを見届けるように、ナナセはようやく肩の力を抜き、羽を少しだけ震わせた。
「……セレンさん、大丈夫、ですか……?」
小さく少しだけ震えたその声は、いつもの愛らしいナナセの声へと戻っていたのだった。




