第153話 精霊の森
目的の精霊の森、その入り口にフィリス率いる特別部隊が到着した。
そこにはすでに、巡回を担当するいくつかの部隊が集結していた。
今回の合同任務は、普段はほとんど人が立ち入ることのないこの森で、何者かの不審な侵入跡が確認されたことがきっかけだった。
森の深部へと足を踏み入れた明らかな形跡がある。
この森やこの周辺地域を襲撃するための前準備として、地形や警備の穴を調べていた可能性も否定できない。
そのため、いくつかの部隊が合同で森の中を精緻に巡回し、侵入者の痕跡や不審な動きが残されていないかを確認することになっていた。
妖精が多く所属する第五部隊がここに加えられているのも、彼らの持つ優れた索敵能力や妖精たちの力を見込まれてのことだった。
「この辺りから二手に分かれる」
フィリスが地図を広げ、周囲の各部隊長へ向けて巡回ルートを的確に説明している。
その説明の最中、ナナセはセレンの制服の右胸ポケットの中に身を潜めていた。
ポケットの縁から外を覗くこともなく、静かにセレンの胸元へ身体を預けている。
少し離れた場所から、以前見聞きしたことのある知っている気配を感じ取っていた。
第五部隊の隊員たちと、彼らが連れている使役妖精たちの気配。
ナナセはそれを察知して、外に顔を出すことはできなかった。
けれど、そのすぐ隣にはセレンがいる。
セレンの温かな体温が、制服のポケット越しに伝わってくる。
そして少し先には、頼もしいフィリスたちもいる。
それだけで、不思議と胸の奥の動揺は静まり、落ち着いていた。
ここなら大丈夫――そう思えていた。
「……」
セレンはポケットの中に収まるナナセの穏やかな気配を感じ取りながら、そっと静かに息を吐き出す。
怯えることなく落ち着いている。
それが分かるだけで、セレンも内心では大きな安堵を覚えていた。
やがて説明を終え、フィリスがパンと音を立てて地図を畳む。
「じゃ、任務開始で」
そのハッキリとした声を合図に、周囲の隊員たちが一斉に森林の各担当エリアへと動き始めた。
セレンも胸元でナナセの入ったポケットの上から、そっと手を添えて軽く押さえる。
「行こうか」
「……はい」
小さな、けれど澄んだ返事がポケットの裏側から返ってくるのを聞き届けると、セレンは静寂の広がる森の奥へと一歩を踏み出した。
◇
森の中へ一歩踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気が一変した。
まるで外の世界とは、目に見えない明確な境界線でも引かれていたかのようだった。
木々の青々とした葉が重なり合い、まだ昼間だというのに森の奥にはしっとりとした薄暗い影が落ちている。けれど、そこに不穏さはない。
爽やかな風が葉を揺らし、どこか遠くで小さな鳥のさえずる声が聞こえる。
足元には可憐な野の花が咲き誇り、苔むした岩の間を澄んだ細い水の流れが静かに走っていた。
人間であるセレンたちが、この森においては明確な部外者なのだと感じさせるほど、生命と自然の気配が濃密に満ちている。
それでいて、どこまでも静かで穏やかな森だった。
「……」
セレンのポケットの中から、ナナセがそんな気配を感じてそっと顔を出した。
目の前に見渡す限り広がる幻想的な景色を、ゆっくりと大きな瞳で見渡していく。
咲き誇る花、そびえ立つ木々。
葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日。
どれも、遠い昔の記憶の中にあるような、ないような――。
「……こんな感じ、だったかも」
ぽつりと、風にさらわれるような小さな声で呟く。
実際に目にしてそう思えたのは、自分の記憶が薄れて以来、初めてのことだったかもしれない。
ナナセはポケットの縁を小さな両手でしっかりと掴みながら、もう少しだけ身を乗り出して顔を出すと、心地よい森の風がその柔らかい髪を優しく揺らした。
その様子を横目で見つめていたセレンが、ふと口を開いた。
「ナナセは、こういうところの方が似合うね」
「……そうですか?」
ナナセが不思議そうにセレンの横顔を見上げる。
「うん」
セレンは前方に視線をうつしたまま、静かに答えた。
豊潤な自然の中に溶け込むような淡く美しい髪。
繊細で小さな身体。
木漏れ日の光を受けてキラキラと美しく揺れる透き通った羽。
まるで、ここが彼女の本来あるべき居場所だったのだと、森そのものが優しく語りかけているかのようだった。
ナナセはセレンの言葉に、少しだけ嬉しそうに目を細めて微笑む。
けれど、そのままポケットの縁を、きゅっと小さな手で握りしめ、少しだけ身体をセレンの胸元へ縮めて寄り添わせた。
セレンはその密やかな動作に気付いていた。
制服のポケットの中、自分のその胸元。
そこにナナセを入れて、どこへ行くにも連れて歩いている。
それが彼女にとって一番安全だから。あらゆる危険からその小さな身体を守るためだから。
ずっとそう思い、疑わなかった。
けれど今、この雄大で静謐な精霊の森の中で彼女の姿を見ていると――。
自分がナナセを、こんな小さな場所に無理やり閉じ込めてしまっているようにも感じられてならなかった。
もし自分と出会っていなければ、本当ならこの豊かな森を自由に飛び回っていたのかもしれない。
可憐な花の上にふわりと降り立って。
大きな木々の間を風に乗って自由に抜け出して。
誰かに守られ連れ回されることもなく、自分自身の好きな場所へ翼を広げて行っていたのかもしれない。
以前、降星祭の流星の輝きの中で美しいナナセを目にした時と同じような、胸を刺すような感覚に陥っていく。
セレンは僅かに目を伏せ、ナナセから視線を落とした。
ナナセが自分のすぐそばにいてくれることを、心の底から愛おしく嬉しいと思う素直な気持ちと――。
彼女が本来持っていたはずの自由を、己の手で奪ってしまっているような、言葉にしようのない切なさ。
矛盾する二つの強い感情が、セレンの胸の中で重く静かに重なり合っていたのだった。




