第15話 静かな場所
バルコニーの外でしばらく静かな風に当たっていたセレンは、ふとガラス越しにホールの中のほうへ視線を向けた。
ガラスの向こうで、フィリスと目が合う。
フィリスは小さく手を振って見せた。
『――戻るぞ』
無言の合図。
セレンは短く頷くと、腕の中に収まっているナナセへ視線を落とした。
「帰るか」
「……はい」
ナナセがセレンの腕の中で、小さく可憐に頷く。
セレンがそのまま足を踏み出そうとした、その時。
「あの……」
「ん?」
ナナセがセレンの腕の中で、気まずそうにほんの少しだけ身じろぎをした。
「……降ります」
少しだけ赤くなった顔を伏せ、躊躇いがちな声で呟く。
セレンは足を止めた。
「なんで?」
「……その」
ナナセは自分が幼子のように抱き上げられている現状を改めて意識したように、パタパタと視線を泳がせる。
「自分でも、歩けますので……」
「知ってる」
「……」
「でも、そのままでいい」
「……いいんですか?」
「うん」
セレンは何でもないことのように、あっさりと答えた。
「さっきより人、増えてるし」
ナナセはセレンの腕の中から、チラリと中の様子を覗き見る。
確かに、先ほどよりもさらに大勢の隊員が残って雑談を交わしている。そしてその喧騒のどこかには、あの五部隊の男たちもいるはずだった。
ナナセはそっと視線を戻した。
「……はい」
それ以上は何も言わなかった。
セレンも余計な追及はせず、ナナセを抱きかかえたまま重厚な扉を押してホールへと戻る。
扉が開いた瞬間、一気に大勢の話し声と熱気が押し寄せてきた。
ナナセの身体が瞬時にキュッと強張る。
けれど、セレンの腕は少しの揺らぎもなく、確かな温もりで自分を支えてくれていた。
そのまま迷いのない足取りで、フィリスたちの元へと向かう。
「お疲れ」
フィリスが待ち構えていたように声をかける。
「うん」
セレンが短く返す。
ナギが抱えられたナナセの顔を覗き込み、ニッと笑った。
「このまま部屋まで帰る?」
「そうする」
「了解」
誰ひとりとして、ナナセに「自分で歩け」などとは言わなかった。
ソラトもヒヨリも何も言わず、自然な動作でセレンの左右と後ろにつき、人混みの波から二人を守るように肩を並べて歩き出す。
ナナセはその温かい配慮に、ちゃんと気づいていた。
そして――そっと、セレンの服の胸元を指先で掴んだ。
ほんのわずかな力。
けれど、確かにセレンへ向けた信頼の証。
セレンはその指先の重みに気づいたようだったが、何も言わなかった。ただ、抱え直す腕に少しだけ優しさを込める。
五人はそのまま、大勢の隊員がひしめくホールを横切っていく。
途中。
ナナセは一瞬だけ、嫌な気配の残る五部隊のほうへ視線を向けそうになった。
けれど――。
すぐ目の前にある、セレン胸元へ、静かに視界を戻した。
もう、過去を振り返る必要はどこにもなかった。
騒がしいホールを通り抜け、重い扉が静かに閉まる。
途端に、背後の喧騒が遠ざかっていった。
「……静か」
廊下に足音が響く中、ナナセがポツリと呟いた。
ナギが横から楽しそうに笑う。
「やっぱり、人が多い場所は苦手?」
「……少し」
「はは、そっか。じゃあ早く帰ろ」
それだけだった。誰も余計な詮索はしない。
セレンは無言のまま、ナナセを腕に抱いて静かな廊下を進んでいく。
ナナセはその温かい腕の中で、ようやく全身の力をふっと抜くことができた。
今日一日。
大勢の人が集まる恐怖に身を固くしていた。
嫌な過去の気配にも気づいてしまった。
けれど――。
最後にはこうして、傷つくことも失うこともなく、温かい居場所へ帰ることができている。
ナナセはセレンの胸に顔を寄せ、小さく安息の息を吐いた。
セレンの腕の中は、思っていたよりもずっと静かで、温かかった。




