第149話 飛び込んだもの
「……やばい。思ったより遅くなった」
静まり返った隊舎の廊下を急ぎ足で歩きながら、セレンは焦りを滲ませて小さく呟いた。
予定していた任務自体が予想以上に長引いたことに加え、帰還前の報告や確認作業にも思った以上の時間がかかってしまった。
先に寝てていいからと、出がけにナナセにはそう伝えてはいたけれど――。
「ナナセ、大丈夫かな……」
一人で部屋に残された彼女の顔が浮かび、焦る足が自然と速くなっていく。
廊下を駆け抜け、ようやく部屋の前まで辿り着くと、ポケットから鍵を取り出した。
ガチャリ、と静かな夜の廊下に金属音が響く。
扉を素早く開ける。
「ただいま――」
言い終わるより早く、室内から小さな影が猛然と飛び込んできた。
「うわっ」
溢れんばかりの勢いのまましがみついてきたナナセの身体を、セレンは慌てながらも両腕でしっかりと受け止める。
「ナナセ?」
しっかりと腕の中に収まったその細い身体を静かに抱き返しつつ、セレンは覗き込むようにして彼女の顔を見つめた。
「ごめん、遅くなった。大丈夫だった?」
ナナセはセレンの問いかけにはすぐ答えなかった。
代わりに、着ているセレンの服をキュッと小さな手で力強く掴み取る。
そのままセレンの胸元へと固く顔を埋めると、消え入りそうな震える小さな声が落ちた。
「……寂し、かった」
その不意の一言に、セレンは息を呑み、回した腕にギュッと少しだけ力を込めた。
「ごめん、ごめんね」
ナナセはそれでも顔を上げようとはしなかった。
帰ってきたら、ルナに言われたように「寂しかった」と伝えてみよう。
そんな言葉を伝えたらセレンがどう思うか、どんな表情をするか、そんなことをあれこれ思い巡らせる余裕すら、今のナナセにはもう残っていなかった。
ただ、無事に目の前へ帰ってきてくれた。
自分の腕の中にセレンの温もりが存在する。
ただそれだけで、彼女の胸はいっぱいだったのだ。
セレンは胸元で小さく丸まるナナセの様子を感じ取り、そっとその身体ごと抱き上げた。
「おいで」
急に浮き立つ感覚に、ナナセは抵抗することもなく、そのまま素直にセレンの腕の中へ身体を預けた。
「……疲れませんか」
「全然」
いつものように穏やかに答えながら、セレンはナナセを腕に抱いたままリビングへと戻っていく。
リビングのソファには、先ほどまでナナセが身を小さくして包まれていた毛布が、そのまま残されていた。
それを見た瞬間、セレンは一瞬だけ切なそうに目を細めた。
こんな夜遅い時間まで、暗い部屋でただ一人、自分の帰りを寝ずに待ち続けてくれていたのだ。
「……待ってたんだね」
ナナセは問いに直接答えず、セレンの胸元に顔を深く埋めたまま、服を握る指先だけを少し強くした。
セレンはそのナナセの背に回した手を、優しく包み込むように撫でる。
「もう帰ってきたよ」
耳元に届くその静かな声を聞いて、ナナセの強張っていた身体からほんの少しだけ力が抜けた。
「……何かあったのかと思って」
セレンの胸元に顔を埋めたまま、ナナセがぽつりと小さく呟いた。
その声には、まだ途切れかけた震えが微かに残っている。
セレンはそんな健気なナナセの存在を、もう一度確かめるようにそっと強く抱き寄せた。
「そっか……心配させちゃったね」
震える背中を、落ち着かせるようにゆっくりと撫で下ろす。
「ごめん」
ナナセは何も言わず、ただセレンの服をしっかりと握ったまま彼の温もりに身を委ねていた。
「でも、待っててくれてありがとう」
その感謝の言葉に、セレンの服を握りしめていたナナセの指先がふっと解けた。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
不安と寂しさの余韻がまだ残る瞳で真っ直ぐにセレンを見つめ、それから安堵したように小さく微笑む。
「……おかえりなさい」
その可憐で温かな一言に、セレンもふっと表情を緩めて微笑んだ。
「ただいま」
どれほど過酷な任務から戻ろうとも、自分を受け入れてくれるかけがえのない場所が、ちゃんとここにある。
そんな尊い事実を互いに確かめ合うように、セレンはナナセを腕に抱いたまま、しばらくの間静かに離そうとはしなかったのだった。




