第146話 一人待つ夜
朝晩の風にわずかな涼しさが混じり始める頃になると、セレンたちはどこか忙しそうに過ごしていた。
「今日は待ってて。好きなことしててね」
朝、任務に向かう前の部屋で、セレンはそう言うことが多くなった。
ナナセは、その言葉を聞くたびに小さく頷く。
「はい。気を付けてください」
そう言って、出かけていくセレンの後ろ姿を見送る。
ナナセにも、その理由はよく分かっていた。
今回の任務先には、きっとカネルたち第五部隊がいるのだろう。
だからこそ、セレンは自分を連れて行かないのだ。
過去の出来事を思えば、それがセレンなりの配慮であり、自分を守るための気遣いなのだということも理解していた。
だから、自分から連れて行ってほしいとは口にしなかった。
セレンが戻ってくるまで、この部屋で静かに待っている。
それが自分のできることだと思っていた。
けれど――。
夜になっても、部屋の扉は開かないまま、壁の時計だけが淡々と針を進めていく。
いつもなら、訓練や任務を終えたセレンと共に部屋へ戻っている時間だった。
二人で夕食をとり、本をめくったり、今日あったことを少し話したりする。
眠りにつく前には「おやすみ」と穏やかに声を交わす。
そんな当たり前の時間が、今夜はない。
ナナセはソファに座ったまま、ぼんやりと動かない扉を見つめていた。
「……」
静寂に包まれた部屋。
こうして一人で時間を過ごすことなど、何とも思わなかったはずだ。
むしろ、一人で静かに過ごすことのほうが自分にとっての普通だった。
それなのに――。
今は少しだけ、心が落ち着かず、心細い。
任務に付き添っていたら、いまこの時間もきっとセレンと一緒にいた。
同じ景色を眺め、同じ道を歩いて。
部屋へ帰れば、いつものようにすぐ隣に彼がいる。
その時間が、いつの間にか自分にとって当然の日常になっていたのだ。
「……まだかな」
ぽつりと、小さな呟きが静かな室内に落ちる。
言葉にして口から漏れてしまってから、ナナセは少しだけ顔を熱くした。
セレンがいないというだけで心が落ち着かないという事実を、自分がこんなにも当然のこととして受け入れているのだと、改めて気が付いたからだった。
窓の外では、わずかに夏の名残を含んだ夜風が、木々をさわさわと揺らしている。
ナナセは膝を抱えるようにして身を小さくし、もう一度扉へ視線を向けた。
そして、ゆっくりと過ぎていく時間を静かに過ごしていたのだった。
◇
さらに時間が経っても、部屋の扉が開く気配は一向になかった。
ナナセは何度目か分からないほど壁の時計を見上げたあと、ふっと小さな息を吐き出した。
気を紛らわせよう、そう思い立ち、重い腰を上げて部屋を出ることにした。
向かった先は、ナナセもセレンと一緒によく利用するようになった、ルナの居るダイニング。
夜遅い時間帯に、こうして一人でここへ足を運ぶのは初めてのことだった。
けれど、以前セレンが何気なく口にしていた言葉を思い出す。
『夜もルナはいるから。なんかあったら頼ってね』
ただ一人で静まり返った部屋に居続けるよりは。
そう思って、ひんやりとした静かな廊下を歩いていく。
ダイニングへと近づくにつれて、昼間の賑やかな光とは違う、どこか落ち着いた灯りが漏れているのが見えてきた。
扉をそっと開けると、夜のダイニングは昼間よりもずっと静かだった。
それでも、カウンターの向こう側にはいつものようにルナの姿があった。
「おや、ナナセじゃん。珍しいねー」
ルナが気づき、親しみやすく嬉しそうに笑った。
「こんばんは……」
「こんばんは。こんな時間に一人で来るなんて、どうしたの?」
朝や昼に訪れるときとは、どこか少し違う雰囲気を纏った空気。
人の姿がほとんどない静かな店内に、最初はほんの少しだけ身を固くして緊張した。
けれど、いつもと変わらないルナの気さくな声を聞いているうちに、自然と肩の力が抜けていく。
「まぁ座りな」
促されるまま、ナナセはカウンター席へ腰を下ろした。
ほどなくして、何を頼むでもなく、湯気の立つ温かなハーブティーのカップが目の前へコトンと置かれた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
ナナセはカップをそっと小さな両手で包み込んだ。
鼻先をくすぐる馴染み深いハーブの香りに、胸の奥の緊張がほどけていき、ナナセは小さく息を吐いた。
「……ふぅ」
それだけで、すっと心が落ち着いていく。
ルナはそんなナナセの様子をカウンター越しに眺めながら、思い出したように尋ねた。
「セレンは?」
「今日は……帰りが遅くて」
「ああ」
ルナは何かを察したように少し納得した様子で頷き、それから揶揄うように笑った。
「はは。それは寂しいね」
「……そうですね」
反射的にそう言葉を返してから――。
ナナセは、自分の言葉にハッとして少しだけ目を伏せた。
「……」
その口から出た言葉に、誰よりも自分自身が驚いていた。
寂しい。
さっきから部屋にいる間も、ずっと胸の奥に漂っていたものの正体。
部屋で一人で待っているときも、何度も扉のほうを見てしまったときも、別のことを考えようとして気が散ってしまったときも。
その原因のすべてが、この気持ちだったのだ。
セレンが隣にいないことが、寂しい。
ナナセは手元にあるカップの中で揺れるハーブティーの水面を見つめ続けた。
彼の帰りを待ちたいと思うほど、セレンという存在が自分の中で大きく、かけがえのないものになっていた。
「……寂しい」
ぽつりと、静寂の中に言葉を呟く。
こうして自分の声で口にしてみると、今まで曖昧だったその感情が、はっきりと胸の中で形を持ったような気がした。
ルナは何も言わず、ただ包み込むような穏やかな笑顔を浮かべて、静かにナナセを見守っていたのだった。




