第137話 暑さよりも
集合地点だった森の入り口からアルカの訓練所へと戻ってくる頃には、夜の静寂はすっかり深くなっていた。
夜間訓練を終えた各部隊の隊員たちが、それぞれ解散の挨拶を交わしながら散っていく。
「じゃあ、戻ろ」
「はい」
「お疲れー」
「おやすみなさい」
フィリスやナギたちと、短く言葉を交わして早々に別れ、ナナセはセレンの隣に並び立つと、二人で自室へと向かって歩き出す。
昼間の賑やかさが嘘のように、夜の訓練所内はしんと静まり返っていた。
二人の規則的な足音だけが、誰もいない長い廊下に小さく響き渡っている。
ナナセは歩調を合わせながら、横に立つセレンの顔を横目で見上げた。
先ほど集合地点で、フィリスに向かって『あんまりナナセを使わないで』と言い放った時のセレンの横顔――。
ほんの一瞬だけ見せたその表情は、どこかいつもと違っているようにナナセの目に映っていた。
フィリスに怒っているわけではない。
かといって、フィリスに対して嫌悪感や不快感を抱いているようにも見えなかった。
ただ、どこかほんの少しだけ不満そうで、寂しそうな……。
ナナセはセレンが見せたあの微かな表情の意味が、どうしても気になっていた。
「セレンさん」
「ん?」
名前を呼ばれて振り返ったセレンの表情は、いつもの穏やかで優しいそれに戻っていた。
「……えっと……」
何をどう尋ねればいいのか、自分でも上手く言葉がまとまらない。
迷いを抱えたまま、少し目を俯かせて目に入ったものに、気付けば口から全く別の想いがこぼれ落ちていた。
「あの……手……」
言ってしまってから、ナナセ自身が思いがけない自分の言葉に驚いて小さな口を紡ぐ。
セレンも一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに悟ったようにそっとナナセの手へ、温かな視線を落とした。
「……あ」
小さく納得したように呟くと、セレンの表情がふっと緩んだ。
「そういえば繋いでなかったね」
そう優しく言って、セレンの大きな手が伸びてくる。
ナナセの小さな手をそっとすくい上げるように取ると、そのまま包み込むように握り締めた。
「……はい」
ナナセはセレンとしっかり繋がれた自分の手元を見つめる。
陽が落ちた夜とはいえ、初夏の暑い季節。
互いの手のひら同士がぴったりと触れ合っていると、肌の熱が伝わって少しだけ暑かった。
それでも――全く嫌ではなかった。
むしろ、セレンから伝わってくる確かな温度がたまらなく心地よかった。
先ほど胸に引っかかっていた小さな違和感を、上手くセレンには聞けなかったが、今はこのまま聞かなくていいような気がした。
セレンも特に言葉を発することはなかった。
ただ、繋いだ手のひらを少しだけ大切そうに、確かめるように握っている。
そのセレンの横顔を見上げて、ナナセは満足そうに小さく笑った。
「……ちょっと暑かったですね」
「うん」
「でも……いいです」
ナナセの素直で健気な言葉に、セレンが少しだけ驚いたように彼女を見つめた。
それから、嬉しそうに笑った。
「そうだね」
二人はそのまま、解けない手と手の温もりを感じ合いながら、静かな夜の廊下をゆっくりと歩いていったのだった。




