第133話 夜間訓練
本格的な暑さが続き始める季節を迎えると、アルカの隊員たちは昼間の任務以外、涼しい夜間を利用した訓練を行うことが増えていた。
訓練が本格的に始まる時刻になる頃には、昼間に溜め込まれていた重苦しい熱気はすっかり薄れ去っていた。
今日の訓練は、実戦の突発戦を想定した野外訓練だった。
アルカの訓練所を出て少し進んだ先にある深い森を使い、複数の部隊が合同で大規模な夜間捜索・連携訓練を行っている。
森の中を通り抜ける夜風はひんやりと冷たく、木々の葉同士が静かに擦れ合う微かな音が、黒々とした暗闇の中にどこまでも静かに響き渡っている。
昼間の容赦ない強い日差しの下では暑さに参ってしまっていたナナセも、夜になれば幾分か過ごしやすそうにしていた。
そして今日も、セレンの右胸にある小さなポケットの中にいた。
小さな身体をすっぽりと収め、ポケットの縁から小さな顔と白い髪だけをひょっこりと覗かせている。
「暑さは大丈夫?」
静かに森を進みながら、セレンが視線だけを胸元へ落として小さく尋ねる。
「はい。夜は涼しいですね」
ナナセはそう心地よさそうに答え、静まり返る夜の森の中へと目を向けた。
昼間に見知っていた明るい森とは、まるで別の場所であるかのような景色だ。
冴え冴えとした月明かりは重なり合う木々の葉に遮られ、足元の草地にはところどころ淡い光の破片がぽつりと落ちているだけ。
少し遠くに立つ人間の姿も、夜の森の深い闇の中では輪郭がぼやけて曖昧になってしまう。
視界の極度に悪い暗闇での迅速な索敵や、自身の気配を完全に消しての移動。
暗闇の中でも乱れない仲間との連携。
そして、敵に不意に発見された場合の咄嗟の対応。
そんな状況に適応するための訓練が始まった。
指示を受けたそれぞれの班が、森の中の闇へと散らばっていく。
「じゃあ、俺たちはこっち」
フィリスが周囲の闇を注意深く見回しながら声をかける。
セレンも短く頷き、自分が担当する部隊の方へ向かって足を進めた。
フィリス、セレンの二人が一つの班を担当して指導に当たり、ナギ、ソラト、ヒヨリの三人もそれぞれ別の班の指導・統括へと分かれていく。
「夜の森では、昼間と同じように動かないこと」
フィリスの凛とした声が、暗い森の中に静かに響いた。
「見えないからって、音まで消えるわけじゃない。足音、枝を踏む音、衣服の擦れる音。全部拾われると思って」
指導を受ける班員たちが緊張感をもって頷く。
セレンは少し離れた場所からその様子を見守りながら、必要な時だけ短く指示を出していた。
その立ち振る舞いや動きは、昼間の戦闘時と何一つ変わらない。
どこまでも静かで、無駄がない洗練された動きだった。
ふと、セレンがピタリと足を止める。
「……そこ」
低く短い声。
ナナセもつられてハッと視線を向けた。
セレンが声を向けた暗闇の先――。
暗い木々の間で、訓練中の班員の一人が不用意に足元の落ち枝を踏み抜いていた。
ぱき、と乾いた小さな破壊音が夜の静寂の中で小さく鳴る。
「今の音、敵なら位置が割れてる」
セレンが感情を交えず静かに言い放つと、落ち枝を踏んだ班員が慌てて周囲を警戒するように見回した。
ナナセはポケットの縁から少しだけ身を乗り出し、深く広がっていく夜の森を見つめた。
昼間よりもずっと静かで、深く研ぎ澄まされた世界。
その静けさの中で、セレンたちの動きだけに耳を澄ませていた。
◇
それから班員たちのある程度の動きを確認し終えると、フィリスたちは合流地点へと一度集まっていた。
「じゃあ、そろそろ実戦に移ろうか」
フィリスが森の奥の方へ視線を向ける。
少し離れた木々の隙間から、ナギたちの率いる別班が明かりを囲むようにして集まっているのが見えた。
「ナギたちと一回合流する?」
「そうだね。模擬戦の位置も決めたいし」
セレンも深く頷き、遠くに見える小さな灯りを見つめる。
その時だった。
「……あの」
セレンの胸元のポケットから、可憐な小さな声が森に小さく鳴った。
セレンがその声に視線を落とす。
「私が、連絡をしてきましょうか?」
ポケットから顔を覗かせたナナセが、セレンとフィリスの二人を見上げていた。
フィリスが一瞬だけセレンの方へ視線を送る。
止めるだろうか? そんな確認を込めた視線だった。
けれど、セレンはナナセを見下ろしたまま、何も言わなかった。
言葉には出さないものの、ナナセ自身が誰かの役に立ちたいと前向きに思っているその健やかな意志を尊重するように、セレンは少しだけ目を細めていた。
それを見たフィリスが、思わずふっと楽しそうに笑う。
「いい案だね。それじゃあお願いしようかな」
「はい」
ナナセの返事は、いつもよりほんの少しだけ明るく弾んでいた。
「ナギに、そろそろ始めるって伝えてくれる?」
「分かりました」
「それから、そのままナギのところにいてもらって。向こうが動き出したら、セレンと合流できるようにナギに動いてもらって、戻っておいで」
「はい」
頼まれた伝言を一つずつ確認するように素直に頷く。
ナナセの表情が、どこか誇らしげに、嬉しそうに緩んでいた。
部隊の役に立てることがたまらなく嬉しいのだろう。
そんな彼女のキラキラとした表情を見ていたセレンは、なんとも言えない複雑で微妙な顔をする。
セレンの本心としては、できれば自分が直接連れて行くか、他の誰かに任せたいところだった。
けれど、ナナセが勇気を出して自分から言い出した大切な気持ちを、わざわざ取り上げる理由も無かった。
「……気を付けてね」
結局、セレンの口から出たのはその一言だけだった。
「はい。すぐそこですから」
ナナセはセレンの気遣いに小さく笑うと、背中の羽をふわりと広げ、そのままセレンの胸元から夜の森へ軽やかに飛び出していく。
その小さな身体が木々の隙間をすり抜け、遠くに見えるナギたちの灯りへ向かってまっすぐに進んでいく。
セレンはその遠ざかる小さな背中を目で追ったまま、しばらく黙りこくっていた。
「ははっ。そんな心配そうな顔する?」
フィリスがその横顔を見て、面白そうに吹き出した。
「してない」
「してるしてる」
「……」
セレンはフィリスのからかいに何も返さず、ただ暗い森の向こうへ姿を消していったナナセの気配を探るように、じっと瞳を凝らして目を細めた。
「まあ、大丈夫だよ。ちゃんと自分からやりたいって言ったんだから」
「分かってる」
そう短く口では答えながらも――。
セレンの複雑な気持ちが入り混じった視線は、ナナセが飛んでいった暗闇の方向から、どうしても離れようとしなかったのだった。




