第130話 青嵐
翌朝、今日の任務へ向かうための支度をするセレンは、昨夜入れ替えたクローゼットから夏用の涼しげになった薄手の黒い制服を取り出し、袖を通していた。
つい先日まで身を包んでいた重厚な長袖の制服や厚手の外套がなくなったことで、彼の立ち姿は随分と身軽ですっきりして見える。
生地が薄手の夏物に変わっただけだというのに、どこか涼しげで爽やかさが増し、いつも見慣れているセレンとは少し違って新鮮に映った。
ナナセはベッドの端から、そんなセレンのことを何となくじっと見つめてしまっていた。
「……」
「見すぎ」
ナナセの熱い視線に気づいたセレンが、可笑しそうに口元を緩めて笑う。
「……あっ、すみません」
ナナセは照れくさそうに視線をサッと逸らし、自分でも何となく誤魔化すように言葉を紡いだ。
「外套がなくなってしまったので……」
「え? ああ」
セレンもその言葉の意図に納得したように頷くと、少し考えるような仕草で己の新しい夏用制服を見下ろした。
そして、自分の右胸あたりについている小さなポケットにそっと手をかけ、のぞき込んだ。
「入るなら、次はこっちかな」
「そこですか?」
「うん。入れる?」
セレンにそう促され、ナナセは近寄ると、セレンが屈むようにして見せるポケットを覗き込む。
以前の外套の裏ポケットの中とは、全く違う景色だった。
そもそも、夏の間は主人の肩の上やその周りで飛んでいることがほとんどで、夏服自体に入ったことがなかった。
薄い制服の生地越しに外の明るい光がすぐ近くに感じられ、少し首を伸ばして顔を出せば、景色を見渡すこともできそうだった。
「……試してみます」
ナナセは小さく呟くと、自分の身体を小さく収縮させる。
そのまま、ふわりと軽やかにセレンの右胸のポケットの中へと降り立った。
すっぽりと身体をポケットの中に収めてから、ひょっこりと顔を出した。
胸元から顔を覗かせる小さなナナセを見て、セレンの目元が和らぎ、ふっと優しく笑った。
「うん、ちょうどいいね」
「外が見やすくなりました」
「暑かったら言ってね」
「はい」
セレンは満足そうにそう言うと、部屋の重い扉を開け、そのまま静かな廊下へと足を踏み出して歩き始める。
胸ポケットの中から外の風景を何気なく眺めながら、ナナセはある変化に気がついた。
分厚い外套の中にいた頃よりも――セレンの体温が、ずっと近くに感じられるのだ。
薄い制服の布地だけを隔てた距離だからこそ、彼が足を踏み出すたびに伝わってくる肌の体温や、かすかな呼吸が以前よりはっきりと伝わってくる。
自分自身の体温でセレンの方こそ暑くなってしまうのではないか、と思わず心配になってしまうほど、自分の熱も伝わっている気がした。
ナナセはポケットの縁に小さな手をそっとかける。
「……」
なんだか、胸の奥がじんわりと温かくなる不思議な気持ちになる。
思い出のつまった外套の中とは少し違うけれど――ここも間違いなく、セレンの一番近くのすぐそばだった。
セレンが歩を進めるたび、右胸のポケットもリズムよく小さく優しく揺れる。
その体に伝わる心地よい揺れさえ、ナナセにとってはたまらなく愛おしかった。
「ナナセ?」
「はい?」
「静かだけど、揺れすぎて大変?」
「いえ」
セレンの気遣う声に、ナナセはポケットの中で小さく首を振ってみせた。
「……ここも、落ち着きます」
彼女が素直な本音を口にすると、セレンは嬉しそうに少しだけ目を細めた。
「そっか」
それ以上は何も言わず、セレンはいつものように確かな足取りで廊下を歩いていく。
彼の胸ポケットから顔を覗かせるナナセの髪が、セレンの歩調に合わせて揺れるたび、夏の日差しを反射して小さくキラキラと揺れていたのだった。




