第129話 衣替え
それから無事に湖から上がったセレンたちは、岸辺でそれぞれ濡れて重くなった衣服や濡れ髪を乾かす作業に入っていた。
「じゃあ、いくよー」
ナギが気さくに片手を高く掲げる。
ふわり、と心地よい風が彼の周囲から巻き起こった。
フィリスたちの濡れた衣服や、湿った髪から水滴が一斉に浮かび上がり、そのまま爽やかな風の旋律に乗ってパラパラと散っていく。
「便利だなぁ、こういう時の魔法」
ヒヨリがさっぱりとした表情で濡れた髪を軽く振りながら、楽しそうに笑う。
「タオル持ってくるの忘れた時とか最高だよね」
「お前はそもそも任務中に湖へ飛び込むな」
フィリスがいつもの呆れたような口調でツッコミを入れる。
「だって暑かったんだもん。みんなも楽しんでたでしょ」
そんな仲の良いやり取りをすぐ横目にしながら、ナナセも自分の身体や衣服に残っていた水分へ向けて、静かに魔力を巡らせた。
ふわり、残っていた細かな水滴が、淡い黄金色の柔らかい光に優しく包み込まれ、衣服からすっと浮き上がって離れていく。
薄い布地に乗った水分も、長い髪の雫も、光の中に溶け込むようにして次第に綺麗に消えていった。
「……」
ナナセは何気なく隣に立つセレンを見た。
セレンはまだナギの風の魔法にあてられず、自分の赤い髪を手で無造作に拭っていたところだった。
その濡れた毛先から、ぽたり、と一滴の雫が落ちる。
ナナセは何も言わず、そっとセレンの髪へ向けて小さな手を伸ばした。
ふわり。
セレンの髪や服に残っていた水分が、ナナセの紡いだ淡い黄金色の魔力に包み込まれ、一瞬で綺麗に消え去っていく。
「……ん?」
ふいに頭上が軽くなったセレンが、不思議そうに顔を上げた。
「まだ濡れていたので」
「……ああ」
セレンは乾いた自分の髪に手で触れ、それから目の前に立つナナセを嬉しそうに見つめた。
「ありがとう」
「いえ」
ナナセが当然だったかのように短く答えると、セレンは目を細めて、柔らかく微笑んだ。
「こういうの、やっぱり便利だね」
「そうですね」
ナナセもセレンの笑顔につられるように小さく笑う。
その微笑ましい二人の様子を少し離れた場所から眺めていたナギが、ふっと口元を緩めていた。
湖の水面では、先ほどまでの賑やかな騒がしさが嘘だったかのように、静かで綺麗な波紋をゆったりと広げている。
本格的な夏へと向かう午後の暖かな陽射しの中、乾いた初夏の風が、二人の乾いた髪をさらりと優しく撫でて通り抜けていったのだった。
◇
その日の夜。
任務を終えて二人で自室へ戻ると、セレンは寝室にある大きなクローゼットの扉を開けた。
「もう暑いし、そろそろ替えようかな」
セレンは独り言のようにそう言いながら、これまで着用していた厚手の外套や長袖の制服を、クローゼットから一枚ずつ取り出していく。
季節が夏へと進めば、どれも出番が少なくなっていく衣服ばかりだった。
「ナナセ、これ、お願い」
「はい」
先ほど「何か手伝います」と申し出ていたナナセが、セレンから手渡された衣服を両手でしっかりと抱えると、そのまま衣装室の奥へしまうためにセレンのすぐ後ろをついて歩く。
いつものように淡々と衣替えの作業を進めていくセレンの隣で、ナナセはふと腕の中に抱えたセレンの外套を見つめた。
胸の奥が、少しだけ名残惜しい。
このセレンの大きな外套の内側は、ナナセにとって特別部隊へ来てから今までの間、何物にも代えがたいものになってしまっていた。
任務中、外の気配や冷たい視線を遮るように優しく自分を包み込んでくれた避難場所。
セレンの心地よい体温や呼吸を近くで感じながら、安心しきって眠ってしまったこともあった。
カネル率いる第五部隊と遭遇するかもしれないような場所であっても、この外套の中に身を潜めてさえいれば、絶対に大丈夫なのだと思えた。
そして何より――。
そこにいるだけで、セレンの一番近くのそばに居続けることができたのだから。
「……」
ナナセは外套を腕に抱えたまま、寂しさを紛らわせるようにほんの少しだけ指先にキュッと力を込めた。
「ナナセ?」
「はい?」
「どうしたの?」
「いえ……」
ぼーっと立ち止まったナナセに気づいたセレンが振り返る。ナナセは慌てて小さく首を振った。
「なんでもないです」
セレンは少し不思議そうにナナセの顔を見つめる。
けれど、何もないと分かると、次の夏物の制服を衣装室から取り出した。
「じゃあ、これもお願い」
「はい」
また一枚、ナナセの小さな腕の中へと新しい衣服が増えていく。
あの思い出の詰まった外套は、もうすぐ衣装室の奥へとしまわれてしまう。
そう思うと、やっぱり胸の奥がほんの少しだけ寂しかった。
けれど――。
「夏用、はここかな」
セレンが取り出した薄手の涼しげな夏用の制服を見て、何枚かめくる。
季節が巡り、着る服が変わったとしても、自分がセレンの隣に居続けること自体は何も変わらない。
そう心の中で思い直して、ナナセは小さく自分に言い聞かせるように顔を上げた。
「セレンさん」
「ん?」
「これも、持ちます」
「ああ、ありがとね」
手渡された夏用の涼しげな制服を受け取る。
その代わりに、腕の中にあった外套をそっと奥のハンガーへと戻した。
彼女の指先が、少しだけ名残を惜しむように、最後まで外套を優しく触っていた。




