第120話 胸に包むもの
急いで部屋へと戻ったセレンは、眠っているかもしれないナナセを起こさないよう、足音を忍ばせて静かに寝室の扉を開けた。
「……え」
目に入ってきた光景に、セレンは思わず声を漏らした。
ベッドの上で、ナナセがすやすやと心地よさそうに眠っている。
そして、その華奢な腕の中には、セレンがいつも羽織っている制服の黒い外套が大切そうに抱えられていた。
ナナセはまるで抱き枕代わりにするかのように、ぎゅっと抱きしめたまま眠っていた。
セレンは一瞬、何が起きたのかと驚いて目を瞬かせた。
それから、彼女のあまりの愛らしさに、口元が少しだけ緩んだ。
「……そういうことするんだ」
どこか嬉しそうな喜びを込めて呟くと、足音を立てずにベッドの傍らへ近づく。
そして、布団から覗くナナセの柔らかな髪をそっと優しく撫でた。
「ナナセ」
その小さな呼びかけに、ナナセがゆっくりと目を開けた。
まだ少し眠たそうな瞳が、目の前に屈み込むセレンの姿を映し出す。
「……セレンさん?」
「うん。戻ってきた」
その声を聞いた瞬間、ナナセの意識が少しずつはっきりと覚醒していく。
そして、自分が腕の中で抱きしめているものの触感に気づき、静かに視線を落とした。
「……あ」
それは間違いなく、セレンの外套だった。
朝、一人残されて寂しくなってしまい、とうとうベッドまで持ってきてしまったもの。
ナナセは自分の行動がばれてしまったことに途端に気まずくなり、視線を泳がせた。
「これは……その……」
必死に苦しい言い訳を探しているような、慌てた様子。
セレンはそんな反応を見て、ふっと優しく口元を緩めて笑った。
「持ってていいよ」
「……え?」
「落ち着くの?」
少しだけ悪戯っぽく、からかうように言う。
ナナセの頬が、見る見るうちにほんのりと染まっていく。
「……えっと……」
完全に言葉が見当たらない様子のナナセに、セレンは笑いながら、外套を抱えたまま固まっているナナセの頭をぽん、と再び撫でた。
「いいよ、好きなだけ持ってて」
「……」
ナナセは気恥ずかしさにしばらく黙っていたが、やがて外套を抱く腕にほんの少しだけギュッと力を込めた。
その健気な様子に、セレンは目を細めると、ベッドの端に腰を下ろした。
「具合、どう?」
「もう大丈夫です」
「熱は?」
「ないです」
「ほんと?」
「はい」
セレンが確かめるように、彼女の額へ手をそっと当てる。
確かに熱はない。
「……よし」
そう言いながら、セレンは安心したように手を離す。
「じゃあ、もう少し寝てて」
「セレンさんは?」
「俺はまた訓練所に戻る」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、ナナセの表情がほんの少しだけ曇る。
それを見逃さず、セレンが優しくなだめるように声をかけた。
「終わったらすぐ戻ってくるから」
「……はい」
ナナセはセレンの外套を抱きしめたまま、小さく素直に頷いてみせた。
時計の針を確認したセレンが、少し名残惜しそうにベッドから立ち上がる。
「じゃあ、待っててね」
そうして、いつもなら、ここで「はい」と素直に頷いて見送るナナセだった。
「……」
けれど今日は、ほんの少しだけ間の空いた静寂があった。
どこか腑に落ちていないような、そんな沈黙。
セレンが不思議に思って振り返る。
「……?」
ナナセはセレンの外套を抱いたまま、しばらく俯いて黙っていた。
それから、意を決したように静かに顔を上げる。
「あの……」
「ん?」
セレンが疑問を浮かべながら、ナナセのほうへしっかりと向き直る。
ナナセは少しだけ視線を泳がせながらも、逃げずにまっ直ぐセレンを見上げた。
「……やっぱり」
消え入りそうな、けれど確かな小さな声。
「一緒に行きたいです」
「……え」
セレンが驚きで目を瞬かせる。
「訓練所に?」
「はい」
「でも、まだ病み上がりだよ」
「分かっています」
ナナセはセレンの外套をぎゅっと胸元で抱きしめる。
「でも……」
言葉を探すように、少しだけ視線を下げて俯く。
「ここで一人で待っているより、訓練所で待っていたいです」
ナナセが自分からそんな我儘や主張を口にするとは思ってもみなかった。
ナナセが傍らにいることも、待っていることも、いつだってセレンの都合や指示に合わせていただけだった。
それが今は――。
自分の意志で、「一緒にいたい」と言っている。
セレンの胸の奥が、じわりと熱く温かな感情で満たされていく。
けれど同時に、病み上がりな彼女の身体を心配する気持ちも事実だった。
「……具合は本当に大丈夫?」
「はい」
「無理してない?」
「してないです」
少しだけ間を置いて、ナナセが勇気を振り絞るように言葉を続ける。
「……寂しくて」
その決定的な一言に、セレンの思考と表情がぴたりと止まった。
「……」
ナナセ自身も口に出してしまってから途端に恥ずかしくなったのか、小さく俯いてしまう。
セレンはしばらくの間、呼吸を忘れたようにナナセを見つめていた。
そして、堪えきれない愛おしさにふっと穏やかに笑った。
「そっか」
ベッドのすぐ前にゆっくりとしゃがみ込み、ナナセとまっ直ぐ目線を合わせる。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「……いいんですか?」
「うん」
セレンはナナセの額へそっと手を当てる。
「ただし、少しでもきつくなったら言って」
「はい」
「眠くなったら?」
「……言います」
「俺の上着の中で寝てもいい」
「……はい」
ナナセの強ばっていた顔が、ほんの少しだけ嬉しそうに緩む。
「じゃあ、準備しよう」
「はい」
ナナセは抱きしめていた外套を大切そうに丁寧に畳むと、ベッドの上にそっと置いた。
その一つ一つの動作すらどこか嬉しそうで、セレンは思わず目を細めて彼女を見つめ続ける。
今のセレンにとっては、ただそれだけのことが、胸がいっぱいになるほど嬉しかったのだった。




