第119話 胸に閉じ込めて
いつも通りの訓練所、そのはずだった。
「セレン」
「……」
「セレン?」
「……」
「セレン、聞いてる?」
「……ん?」
何度目かのナギの呼びかけで、ようやくセレンがゆっくりと顔を上げた。
そのどこか遠くを見ているような表情を見て、ナギは耐えきれず吹き出した。
「何それ。珍し」
「……何が」
「いや、そんな上の空なことある?」
笑いを必死に堪えながら、ナギは可笑しそうにセレンの顔を覗き込む。
朝、訓練所に特別部隊の全員が集まった時。
「ナナセは?」
そうナギに尋ねられたセレンは、
「調子悪いから寝てる」
と、いつも通り素っ気なく短く答えていた。
それ自体は取り立てて不思議なことではない。
ナナセが珍しいね、なんて軽い会話を交わす程度のことだった。
実際、訓練が始まれば、セレンの動きはいつも通りで、何の乱れもなくこなしている。
その集中力も、判断力も、普段のセレンとなんら変わりはなかった。
ただ――。
彼の意識の根底だけが、妙にここではない別の場所へと飛んでいるのだ。
ちょっとした休憩のたびに無意識に壁の時計へと視線を向ける。
渡り廊下の方で何か物音がした気がすれば、ほんの一瞬顔を向ける。
寝室で一人でおとなしく眠っているはずのナナセのことが、朝からずっと彼の頭の片隅を占領しているようだった。
「……セレン、今日ちょっと上の空じゃない?」
ソラトも笑いながら、ナギと同じ言葉を口にしてセレンをからかう。
「……そう?」
「そうだよ」
「別に」
どうやら本人には、自分がどれほど落ち着きなく部屋の様子を気にしているか自覚がないらしい。
ナギはセレンの無自覚さに、ますます面白そうに目を細めて笑った。
そして、昼の刻限。午前中の訓練が一段落し、全体が休憩に入る。
フィリスが手にしていた武器を置き、ぐっと腕を伸ばして息を吐いていると、セレンが即座に立ち上がった。
「俺、また戻る」
「え?」
フィリスが驚いたように顔を上げる。
「部屋に帰る?」
「うん」
「昼飯は?」
「あとで食べる」
迷いなくそれだけ言い捨てると、セレンは片付けもそこそこに、いつも以上の足早さで訓練所をあとにしていった。
「……」
残された四人が、静まり返った室内でしばらくその急ぎ足な背中を無言で見送る。
ナギが最初に口を開いた。
「……珍しくない?」
「珍しいな」
フィリスも呆れたような苦笑いを浮かべる。
「昼休みにわざわざ戻るなんて、今までなかっただろ」
ソラトもセレンの気配が完全に消えた廊下の方向を見つめながら言う。
「ナナセの様子、よっぽど気になるんだろうね」
ヒヨリが少しだけ表情を緩めて笑った。
「朝からずっと気にしてたもんな」
ナギは胸の前で腕を組みながら、ニヤニヤと楽しそうに目を細めた。
「……へぇ」
「何だよ、その顔」
フィリスが少し呆れたようにツッコミを入れる。
「いや?」
ナギは悪戯っぽく笑いながら、かるく肩をすくめてみせた。
他人にあまり執着しないセレンが、誰か一人の存在を過剰なほど気にして、貴重な休憩時間まで惜しんで部屋へ戻っていく姿を見るのは、彼らにとっても非常に新鮮で微笑ましい光景だった。
フィリスたちは互いに顔を見合わせる。
言葉として誰も明確に口にはしなかったが、今ここで考えていることは、きっと全員同じだった。
セレンにとって、ナナセという存在はもう――。
ただの契約した使役妖精などではないらしい、と。




