第118話 いつも通りの残香
朝の光が差し込む部屋で、セレンは訓練服に手際よく袖を通し、外出の身支度を整えていた。
ベッドの上では、すっかり熱の引いたナナセが、まだ少しだけ眠たそうな顔をしてちょこんと座っている。
「今日は病み上がりだし、部屋でおとなしく寝てて」
「……はい」
昨夜のあの不意の口づけや、そのあとのぎこちない会話のことがあるせいか、最初のうちはナナセもどこか照れた様子を隠せずにいた。
けれど対するセレンは、拍子抜けするほどいつもと変わらない様子だった。
支度を終えてナナセの前まで歩いてくると、セレンはいつもの見慣れた手つきで、彼女の額へそっと大きな手を当てる。
「熱はないね」
「……はい」
「何かあったら連絡して」
「分かりました」
「俺、訓練所にいるけど、昼頃一旦戻ってくるから」
「……はい」
念を押すように何度も言われて、ナナセは小さく素直に頷いてみせる。
セレンはそのままナナセの顔を少しの間じっと眺めてから、いつものようにどこまでも穏やかに笑ってみせた。
「じゃ、行ってくる」
「はい、お気をつけて」
「うん」
パタン、と玄関の扉が静かに閉じる。
その途端に、二人でいた部屋が嘘のようにシンと静まり返った。
「……」
ナナセはしばらくの間、動くことも忘れてじっと閉ざされた扉を見つめていた。
昨夜の出来事。
ぼんやりとした部屋の中で交わした、額への口づけ。
その直後にセレンが見せた、彼にしては珍しい、動揺した顔。
それなのに――今朝のセレンは、昨日までの出来事など何一つなかったかのようにいつもと何も変わらなかった。
熱がないか優しく確認して、何かあればすぐ連絡するようにと言って。
昼には必ず一度戻るからとまで念を押していって。
まるで、昨夜の甘い熱気など最初から存在しなかったみたいに。
「……」
ナナセは静かに自分の胸元へ手を当てた。
昨夜の触れ合いを思い返して胸をざわつかせていたのは自分だけなのだろうか、自分だけが一方的に彼を意識しているのではないだろうかと、少しだけ心が落ち着かなくなってしまう。
けれど――。
セレンが過剰に避けることもなく、いつものように接してくれたことに、どこかでホッと安心している自分がいたのも確かだった。
それと同時に。
「……寂しい」
ひとり残された静かな部屋に、ぽつりと小さな言葉が溢れ落ちる。
それは、自分でも驚くほど素直で嘘偽りのない本音だった。
ナナセはそのまま、重い足取りで寝室へと戻っていった。
ベッドへ静かに身体を沈めると、ふわりと被さる布団から、セレンの香りが立ち上ってきた。
今朝まで、自分を抱きしめながら共に眠っていた場所。
その心地よい温もりが、今もまだ僅かに残っている。
「……」
ナナセは寂しさを紛らわすように、布団の端を少しだけ手元へ引き寄せた。
さっきまでなら、この香りを感じるだけで胸がいっぱいになって安心できたはずなのに――。
今はその香りがあるからこそ、ここにセレンがいないという事実が、余計にはっきりと突きつけられている気がしてしまう。
昼には戻ってくる、と彼は言っていた。
けれど、壁にかかった時計を確認する気にもなれず、ナナセは布団の中で身体を小さく丸めた。
セレンの残香に全身を優しく包まれながら、静かに瞳を閉じる。
眠ってしまえば、戻ってくるまでの時間が早く過ぎるかもしれない、そんな思考を胸に抱いていた。




