第117話 無償の祈り
翌朝――。
柔らかい朝の光が差し込む寝室で、セレンは目を覚ますと、すぐ隣へと視線を向けた。
そこには、すっかり熱の下がった様子のナナセが、規則正しく穏やかな寝息を立てて心地よさそうに眠っていた。
その安らかな姿を確かに確認して、セレンは胸のつかえが降りたように、小さく深く息を吐き出した。
「……よかった」
昨夜、あの気まずくも温かなやり取りのあと、ほどなくして二人とも再びベッドへ横になったのだった。
ナナセはしばらくの間、目を閉じたまま緊張が残っているのか上手く眠れずにいるようだった。
それでも、セレンが自分のすぐ隣にいてくれることを確かめるように、時折小さく身体を身じろぎさせながら、やがて呼吸を整えて静かに眠りへと落ちていった。
セレンはナナセが完全に眠りにつくのを最後まで見届け、愛おしさに胸を締め付けられながら自分もゆっくりと目を閉じたのだった。
すやすやと眠っているナナセの寝顔をじっと眺めながら、セレンは昨夜自分の身に起きたことを静かに思い返す。
頬を染めるナナセと見つめ合ってしまった、あの瞬間の衝動。
自分自身の中に突如として生まれた、言葉では説明のつかない生々しい衝動。
それがナナセへと向けられたことで、彼女が今まで自分に対して寄せてくれていた安心や信頼を、自分の手で壊してしまうかもしれない。
そう思った時、セレンはこれまで味わったことのないような恐怖を感じていたのだ。
もし、あの瞬間を境に――。
自分を見つめるナナセの目が、温かな親愛から恐怖や警戒へと変わっていたら。
今までのように当たり前に隣に並んで、自然に触れ合ったり近づいたりできなくなっていたら。
ただそう考えるだけで、胸の奥が冷たく凍りつくような感覚に襲われる。
けれど、ナナセは自分から離れようとはしなかった。
恐怖を覚えるどころか、自分の腕の中で心底安心したように身を預け、眠りについてくれていたのだ。
「……」
セレンは布団からそっと温かな手を伸ばした。
ベッドの上に散らばるナナセの柔らかい髪に、指先でそっと触れて優しく撫でる。
「ん……」
小さく甘えたような声を漏らし、ナナセが微かに身じろぎをした。
それでも目を覚ますことはなく、セレンの指先の触感に少しだけ意識を委ねるように、そっと自分から頭をセレンの手へと預けてくる。
その健気で無防備な様子に、セレンは思わず「……ごめん」と、小さく消え入りそうな声で呟いた。
眠っているナナセは何も答えない。
ただ、静かな呼吸を繰り返している。
セレンはもう一度、愛おしさを噛み締めながら、ゆっくりと彼女の髪を撫で続けた。
ずっと、いつまでも、自分を頼っていてほしい。
自分のそばにいることで、何にも脅かされることなく安心したように笑っていてほしい。
それだけは、何があっても、どんな代償を払ってでも失いたくはなかった。
昨夜、自分の中に確かに芽生えたあの熱い感情が一体何なのか。
今はまだ、明確な名前なんてつけなくてもいい。
ただ――ナナセが自分のすぐそばで、こうして何にも怯えずに安心して眠れること。
それだけを自分の手で守り抜きたいという気持ちだけは、どんなことよりもはっきりとセレンの心に刻まれていた。




