第115話 青年を破るもの
静まり返った暗いキッチン。
セレンは冷えた冷蔵庫から水を取り出したものの、コップに注ぐわけでもなく、しばらくその場から一歩も動けずに立ち尽くしていた。
「……戻りづら」
静寂の中に、思わず苦笑混じりの呟きが漏れる。
手に持った水のボトルの冷たさを手のひらに感じながら、セレンは先ほどの寝室での自分の行いを思い返していた。
ナナセの熱が下がったばかりの滑らかな額に触れた、ほんの一瞬の心地よい感触。
どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でも分からなかった。
ナナセのことは心から大切だと思っている。
傷つけたくないし、自分の手で守りたいと思う。
ずっと自分の傍らにいてほしいと思う。
彼女に必要とされることも、頼られることも、胸が痛くなるほど嬉しい。
それらはもう、自分の中でも十分に自覚し、理解しているつもりだった。
けれど――。
さっき、自分を見てナナセが少し照れたような表情で自分を見上げた、あの瞬間。
その真っ直ぐで無防備な瞳を至近距離で真正面から見つめ返した、あの瞬間。
胸の奥に閉じ込めていた何かが、急激に、逃れようもないほど間近に迫ってきたのだ。
思考や理性が追いつく前に、考えるより先に身体が勝手に動いていた。
「……俺」
セレンは暗がりの中で、小さくぽつりと呟く。
別に、ナナセの肌に触れること自体が嫌だったわけじゃない。
むしろ、その真逆だった。
頭では分かっていても、もっと彼女の近くにいたいと心から望むことが、最近は明らかに増えていた。
傷ついた身体を優しく抱きしめることも。
安心させるように柔らかな頭を撫でることも。
ベッドで安らかに眠っているナナセの顔を隣でじっと眺めることも。
それらは自分にとってもう、息をするのと同じくらい自然なことになっていたのだから。
なのに、あの一瞬の触れ合いだけは明確に違っていた。
これまでの「守りたい」という庇護欲とは違う、生々しい感情に突き動かされていた。
セレンは冷えた水のボトルを強く握りしめたまま、少しだけ目を伏せる。
「……困るな」
誰に言うでもなく、自嘲するように呟いた。
ナナセを一番に大切にしたい。
その想いは、これからも何一つ変わらない。
だからこそ――今までとは明らかに異なる「何か」が自分の中に芽を出し始めているという感覚が、ほんの少しだけ怖かったのだ。
この感情に任せて手を伸ばせば、今の温かく穏やかな関係すら壊してしまうのではないかという恐れ。
「……」
それでも、このまま逃げ出して寝室へ戻らないわけにもいかない。
いつまでも暗いキッチンで固まっているわけにもいかないのだ。
セレンは小さく深く息を吐き出すと、手に持った水をしっかりと持ち直した。
「……普通に戻ればいいだろ」
声に出して、自分を落ち着かせるように言い聞かせる。
けれど――。
寝室へと向かう彼の足取りは、いつもの冷静なセレンとは違い、ほんの少しだけ慎重で重いものだった。




