第114話 瞬く衝動
夜中――。
「……暑い……」
ナナセはそんなことをぼんやりと思いながら、ゆっくりと重い瞼を開け、目を覚ました。
少し前に感じていた頭の重さも、全身の酷いだるさも嘘のように綺麗に抜けている。
さっきまでの辛さが幻だったかのように身体はすっきりと軽く、ただ発熱のせいでじんわりと皮膚に掻いた汗だけが残っていた。
ふと隣を見ると、先ほどまで自分を優しく抱きしめ、体温を分けてくれていたセレンの姿がない。
ナナセが上身を起こして見回すと、寝室の扉が少しだけ開いたままになっていた。
その開いた扉の向こう、隣接する洗面所からカタリ、と小さな物音が聞こえてくる。
しばらく静かに耳を澄ませていると、廊下を歩く足音が寝室へと近づいてきた。
「……あ」
部屋に戻ってきたセレンと、ばっちり視線が重なる。
見ればセレンは上半身に何も着ておらず、手に持ったタオルで濡れた髪を拭いている最中だった。
「ごめん、シャワー浴びてた。起こした?」
入浴上がりの温かな水蒸気と心地よい石鹸の香りを纏ったまま、セレンがベッドの方へと足早に近づいてくる。
「……」
ナナセはその場で見事なまでに固まってしまった。
あまりにも無防備で男らしい彼の姿に、視線をどこへ向ければいいのか、どう反応していいのか全く分からなくなってしまったのだ。
「ナナセ?」
セレンは固まっているナナセを不思議そうに見つめる。
そして、いつもの癖で彼女の体調を確かめようと、ベッドの前へ膝をついてそっと屈み込んだ。
「顔色、見せて」
「わ……」
近い。あまりにも距離が近すぎる。
ナナセは思わず小さな声を上げた。
セレンが顔をぐっと覗き込んでくる。
毛先に残ったままの雫が、照明に照らされて淡く光っていた。
至近距離で、二人の視線がしばらく重なり合った。
「……」
一瞬、二人とも時が止まったかのようにピタリと動かなくなった。
セレンの深い瞳が、自分を見つめ返すナナセの顔を無言で静かに見つめている。
そして――。
それは本当に、ほんの一瞬の抑えきれない衝動だった。
セレンがそっと身を寄せ、ナナセの熱が下がったばかりの滑らかな額へ、優しくそっと唇を触れさせた。
「……」
唇が離れた、その直後。
セレン自身が自分のしでかした行動に驚いたように、大きく目を見開いた。
「……あ」
ハッと我に返ったように、セレンは自分の口元へ手を開いて当てる。
「ごめ……」
「……い、いえ……」
ナナセも突然の出来事に真っ赤になって驚いたまま、消え入りそうな声で小さく答えた。
直後、二人の間に、息が詰まるほどの妙に甘く気まずい沈黙が落ちる。
セレンは動揺を隠すように、少しだけ視線を明後日の方向へ逸らした。
「……水、とってくる」
セレンはそれだけを捲し立てるように言うと、足早に寝室をあとにしていった。
「……」
静まり返った寝室に残されたナナセは、しばらくの間、微動だにできず呆然としていた。
さっきまで感じていた室内や肌の暑さも。
病み上がりの熱の名残も。
そんなものは全部、どこかへ吹き飛んでしまったようだった。
ただ、開いたままの扉の向こうへ慌ただしく消えていったセレンの背中を、言葉もなく見つめ続ける。
「……」
ナナセはそっと、自分の細い指先で額に触れてみた。
そこにはもう、セレンの唇の触感など何も残っていないはずなのに――。
彼に触れられたその場所だけが、いつまでも熱を持っているような気がしてならなかった。




