第113話 わがままの誘惑
セレンがナナセの隣へ横になろうと、ベッドの側から一度立ち上がろうとした、まさにその時だった。
「……」
眠りについていたはずのナナセが、そっと目を開ひらいた。
セレンが自分から少し離れていこうとする気配に敏感に気付いたのか、握り合っていた小さな手に、ほんの少しギュッと強い力が入った。
「……いかないで」
熱でかすれた、消え入りそうな小さな声だった。
その目元には、熱を持ったままの涙がうっすらと浮かび、光を反射して濡れている。
ナナセは弱々しく、そして置いていかれるのを恐れるように心細そうにセレンの手を小さく握り直していた。
「……ナナセ?」
セレンは最初から彼女の側を離れる気などなく、突然の甘えに少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、自分を引き留めているナナセへの愛しさを胸の奥に隠しながら、彼女を安心させるようにそっと優しく笑いかけた。
「行かないよ」
そう柔らかく答えると、握られたナナセの手を包み込むようにそっと握り返してやる。
「ほら」
セレンはそのままベッドの空いたスペースへ滑り込み、ナナセのすぐ隣へと横になった。
隙間を埋めるようにゆっくりと身体を寄せ、ナナセの小さく熱い身体をそっと腕の中へ丸ごと抱き込んでやる。
「ここにいるから」
「……ん」
ナナセはセレンの腕に包まれた瞬間、心底安心したように深く静かな息を吐き出した。
セレンの広い胸元へと素直に頬を寄せ、彼の着ている服をキュッと小さく掴み取る。
その愛おしい仕草を全身で感じながら、セレンはナナセの熱い目元へとそっと指先を伸ばした。
熱のせいで潤んだ、濡れた瞳。
そこに留まっていた溢れそうな涙を、温かな指先でそっとすくい上げていく。
「……かわいいね」
セレンの口からぽつりと漏れ出たその本音に、ナナセの身体がぴく、と小さく反応した。
「そんなことない」と反論したそうにセレンの顔を見上げるものの、熱で頭がまわらずにいて、言葉が上手く出てこない。
諦めたように顔をそっと伏せると、そのままセレンの胸元へと深く埋めて隠してしまった。
「……はは、そんな隠れなくてもいいのに」
セレンはナナセの可愛らしい反応にまた笑い、少しだけ腕の抱擁に力を込めた。
言葉の返事はない。
ただ、セレンの服を掴んでいるナナセの指先が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
セレンはそのまま、胸元で小さくなっているナナセの頭をゆっくりと撫で続けた。
「大丈夫」
髪を撫でる手を決して止めることなく、静かに優しく言葉をかける。
「ちゃんといるから」
ナナセはそっと静かに目を閉じた。
熱の苦しさと共に胸の奥にどこか残っていた微かな不安が、セレンの体温と声によって綺麗にほどけていく。
耳元に響くセレンの規則正しい心臓の音を聞きながら、ナナセはゆっくりと身体の力を抜いて、深い眠りへと落ちていくのだった。




