第107話 涙の名残
「動かないで」
セレンの低く優しい声が、すぐ近くから聞こえる。
次の日の朝。
目覚めたナナセは、セレンに言われた通り素直に目を閉じたまま、ベッドの上で大人しくしていた。
直後、目元にひやりとした心地よい感触がそっと触れる。
冷たい水で絞られた冷やしタオルだった。
「……すみません」
ナナセは少し申し訳なさそうにぽつりと呟き、自分の目元を押さえてくれているセレンの大きな手へ、小さな手をそっと重ねた。
ひんやりとした冷たいタオルが、昨夜遅くまで泣き続けた熱い目元をじんわりと冷やしていく。
熱を持ってじんじん、ひりひりとしていた目元に心地よい冷たさが広がっていき、強ばっていた肩の力が自然と抜けていった。
「だいぶ腫れたね」
タオルの上から目元を軽く押さえながら呟くセレンの声には、少しだけ可笑しそうな笑いが混じっている。
「……」
ナナセは返す言葉もなく、ただ黙り込むしかなかった。
目を閉じていると、どうしても昨夜の出来事が克明に思い出されてしまう。
セレンの服を強く掴んで、子どもみたいにあんなに大声で泣いたこと。
声すら抑えられなくなって、何度も何度も溢れ出る涙を流し続けたこと――。
その時の自分の姿を思い出すほどに、顔全体がみるみる熱くなっていくのが分かった。
「……恥ずかしいです」
「何が?」
「昨日の……私です」
「そう?」
セレンは手元を動かし、タオルの位置を少しだけ丁寧に調整する。
「俺は、別に嫌じゃなかったけど」
「……」
そう言われてしまっては、余計に恥ずかしさが込み上げてくる。
ナナセは固く目を閉じたまま、タオルの上でセレンの手を握る指先に、少しだけギュッと力を込めた。
「……忘れてください」
「無理」
即答だった。
「え……」
「だって、あんなに泣いてたのに」
「……」
「久しぶりにああやって泣く人見た」
くす、とセレンが楽しそうに息を漏らして笑う。
ナナセはますます顔を真っ赤に染め上げ、冷たいタオルの下へ逃げ込むように、少しだけ顔を下に伏せた。
「……もう、いいです」
「はいはい」
セレンは心底楽しそうに返事をしながら、もう一度優しく手元を動かして目元を冷やしていく。
しばらくの間、静かで心地よい朝の時間が流れていった。
「でも」
ふと、セレンの声が少しだけトーンを落とし、どこまでも柔らかい響きへと変わる。
「昨日みたいに、我慢しなくていいからね」
ナナセは冷たいタオルの下で目を閉じたまま、セレンの言葉を噛み締め、静かに深く頷いた。
「……はい」
その素直な返事を聞いて、セレンは満足そうに、口元を緩めて微笑むのだった。




