第103話 天秤に乗せて
その日の訓練を終え、部屋へ戻るまでの道。
ナナセは言葉を発することもなく、ただ静かにセレンの隣を歩いていた。
何気なく手渡され、身につけていたあのハチドリのペンダント。
けれどそれは、セレンにとって想像していた以上に、あまりにも重く大切な思い出の詰まった品だったのだ。
フィリスたちはああ言っていたけれど、そんな歴史ある大切なものを自分が身につけているという事実は、何一つ変わらない。
(……やっぱり、返そう)
部屋に戻り、ソファの前まで辿り着いたところで、ナナセは決意を込めて足を止めた。
「……セレンさん」
「ん?」
振り返ったセレンに向かい、ナナセは自分の首元へとそっと手を伸ばす。
細い銀のチェーンを指先で外し、手のひらの上にハチドリのペンダントを載せて差し出した。
「これ……」
「うん」
「お返します」
セレンの表情が、ピタリと固まった。
「……なんで?」
「だって」
ナナセは手の中にある、美しく輝く小さなペンダントを見つめる。
「これ、そんなに大切なものだったなんて、思わなくて」
「まあ、大事ではあるけど」
「エーテルだけだった時から持ってるってことなんですよね」
「そうだね」
「だったら、私が持っているのは……」
ナナセは申し訳なさそうに、少し困ったように眉を下げた。
「やっぱり、よくないと思います」
セレンはすぐには何も言わなかった。
ナナセの小さな手のひらに載せられたペンダントを、じっと見つめる。
それから、困惑するナナセの顔をまっすぐに見つめ返した。
「おいで」
「……え?」
セレンはそのまま隣のソファへ腰を下ろした。
そして、まだ状況が呑めずに戸惑っているナナセへと向けて、大きな手を伸ばす。
「こっち」
ぐいっと手を引かれる。
ナナセはバランスを崩して小さく身体を傾け、気づいた時にはそのままセレンの温かな膝の上へとすっぽり収まっていた。
「わ……」
突然の距離の近さに、ナナセは驚いて全身の身体を固くこわばらせる。
セレンはそんなナナセの反応を愛おしそうに見つめながら、差し出されていた手のひらからペンダントをゆっくりと受け取った。
銀色のハチドリが、セレンの大きな掌の上でシャラと小さく揺れる。
「確かに、これは大切なものだよ」
セレンは愛おしそうにそう言って、手の中のペンダントを見つめた。
「でも、それとナナセが持ってちゃいけないっていうのは別」
「……でも」
「ナナセに持っててほしい」
それは、驚くほど静かで、力強い声だった。
ナナセが思わず顔を上げる。
セレンはそのまっすぐな視線を逃げずに受け止めたまま、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「……これを持ってると、ナナセが俺たちの側にいるって分かるから」
「それは……私を守るため、ですか?」
「それもある」
セレンはどこか照れくさそうに、少しだけ笑った。
「エーテルの紋章を持ってる相手に、変なことする奴はそういないから」
ナナセはセレンの言葉に、じっと耳を傾けている。
「それに、俺たちの紋章を持ってるってことは、少なくとも俺たちがナナセを大切にしてるって分かる」
「……」
「だから、持ってて」
あまりにも温かな言葉に、ナナセの指が膝の上で小さく震えた。
「……でも、」
「俺はもう持ってなくても分かるから」
「……?」
ナナセが意味を掴みかねて、不思議そうに首を傾げる。
セレンはそんなナナセの無防備な顔を見て、少し困ったように笑った。
「俺がどこにいるかも、誰といるかも、もう十分分かってるし」
「……はい」
やっぱり、ナナセにはその言葉の意図がよく分からない。
セレンはそんなナナセの表情を見て、ほんの少しだけ視線を脇へ逸らした。
ほんの少しの間を置く。
胸の奥にある一番大切な本音を絞り出すように。
「ナナセの居る場所が、俺であってほしいから」
ナナセの瞳が、驚きで大きく見開かれた。
セレン自身も、言葉にしてから急に恥ずかしくなったのか、赤くなった顔を隠すように目を伏せてしまう。
「だから……持ってて」
それ以上は、何も言わなかった。
ナナセはしばらくの間、微動だにできなかった。
胸の奥から、じんわりと温かな熱が広がっていき、全身を満たしていく。
自分という存在を、セレンが心から必要としてくれている。
自分がセレンの傍らにいることを、セレン自身が誰よりも望んでくれている。
その事実が、どうしようもないほど嬉しかった。
「……はい」
消え入るような声で、けれど確かな意思を込めて小さく返事をする。
セレンは満足そうにペンダントを持ち上げると、ナナセの首元へと手を回した。
シャラ、と細い銀のチェーンが温かな肌を滑っていく。
留め具を丁寧に留め直し、ハチドリのペンダントを再び彼女の胸元へと優しく戻した。
「うん」
セレンが心底嬉しそうに、満足そうに微笑む。
「似合ってる」
ナナセはそっと自分の胸元に触れた。
指先に伝わる銀の冷たさ。
けれどその奥には、セレンが手渡してくれた時の温かな体温が、ずっと残っているような気がした。
「……ありがとうございます」
絞り出すようにそう言った、まさにその瞬間。
ナナセの目元から、大粒の涙がぽろりと頬を伝って落ちた。
「え……」
自分でも全く予期していなかった事態に、ナナセは驚いてパチパチと目を瞬かせる。
セレンも突然のことに驚き、目を丸くした。
「ナナセ?」
ポロポロと、もう一粒、また一粒と涙が止まることなく頬を濡らしていく。
ナナセは慌てて両手でそれを拭おうとした。
「すみません……なんで……」
自分でも、どうして涙が溢れてくるのか分からない。
ただ、胸の奥が溢れんばかりの感情でいっぱいになっていた。
「必要だ」と言ってもらえたこと。
「守る」と言ってもらえたこと。
「ここにいてほしい」と、居場所を望んでもらえたこと――。
その一つひとつの優しさが、傷ついていた胸の奥へと温かく落ちてくる。
セレンは涙を流し続けるナナセを、包み込むような眼差しで見つめていた。
そして、そっと優しく彼女の頬へ手を伸ばす。
温かな親指で、つたう涙をそっと拭った。
「……泣かないで」
耳元に届いたのは、どこまでも優しい声だった。
ナナセはその大きな手に触れ返すこともできず、ただセレンの温もりに包まれながら、静かに涙を零し続けるのだった。




