第101話 刻印された名
その日の夜。
一日中の出来事を終えたあとの、静かな時間が部屋を包んでいた。
寝る前のひととき、ナナセはソファに腰掛け、昼間からずっと身に着けていたペンダントをそっと外していた。
手のひらにそっと載せると、窓から差し込む青白い月明かりと部屋の温かな照明を受けて、小ぶりな銀色のハチドリが静かにきらめいていた。
「……綺麗」
改めて見て、思わず感嘆の声が漏れる。
細かな羽の造形とその中心には、一粒の宝石が嵌め込まれていた。
セレンの髪色をそのまま映し取ったかのような、深みのある鮮やかな赤い色の石。
ナナセは指先でそっと宝石を撫でると、何気なくペンダントを裏側へひっくり返してみる。
「……?」
そこには、微かな違和感があった。
よく見ると、小さな文字が刻まれている。
長い年月の間に何度も触れられてきたのか、表面はかなり擦れていたが、装飾的な文字がうっすらと残っているのが読み取れた。
"Aether"
「……エーテル?」
ナナセは文字を指先でなぞりながら、不思議そうに首を傾げた。
しばらくの間、薄くなったその文字列をじっと眺めつづける。
「誰かの名前……かな」
このペンダントを作った工房や店の名前なのかもしれない。
あるいは、このハチドリのモチーフそのものにつけられた名前なのだろうか。
いくら考えても、今のナナセには分からない。
ただ――このペンダントが、セレンにとってずっと大切に手元に置かれていた特別な代物だということだけは、はっきりと理解できた。
そんな大切な品を、彼は自分のお守りとして惜しげもなく与えてくれたのだ。
「……」
ナナセはもう一度、ペンダントを表側へ戻す。
美しい銀色のハチドリ。
その中心で、灯火のように淡く光を放つ赤い宝石。
指先でほんの少しだけ揺らしてみると、精巧な小さな羽が光を浴びて、きらりと優しく輝いた。
ナナセはそれを、時間を忘れてしばらくじっと眺めていた。
◇
翌朝。
いつものように訓練所へ向かう準備を整える中、ナナセは昨夜机の上に置いていたペンダントを手に取った。
手のひらの上で少し迷うような素振りを見せてから、首にかける。
細い銀のチェーンがすべり、ハチドリが胸元へと優しく収まった。
けれど――ふと不安がよぎる。
何かの拍子に、激しい動作や何かに引っかけて、万が一にも落として傷つけてしまったらどうしよう。
セレンの身近にいた間も、彼が普段これを首から下げて身につけているところを見たことがなかったのだ。
大切なものを傷つけたくない一心で、ナナセはチェーンをそっと引き上げると、胸元の服の中へとハチドリをそっと滑り込ませ、隠すように収めた。
その一連の様子を隣で見ていたセレンが、服から覗く首元のチェーンだけに視線をやり、ふっと可笑しそうに笑った。
「別にいいのに」
「いえ……」
「まあ、気に入ったならいいけど」
「はい」
セレンはナナセの想いを汲み取るように、どこか嬉しそうに少し笑った。
ナナセもその笑顔に応えるように、小さく嬉しそうに頷いた。
服の下、肌の上に触れるハチドリの確かな冷たさと温もりを感じながら、二人はいつものように手を携えて訓練所へと向かうのだった。




