逆鱗と大軍
西街道・国境手前。
敗残兵たちが、ようやく本隊へと辿り着いた。
鎧は泥と血で汚れ、馬は減り、担架には脚を潰された兵。
その姿を見た瞬間。
本隊の空気が、凍った。
「……どういうことだ」
重装の将が低く問う。
「伏兵です……森に……!」
「姿も見えず……罠ばかりで……!」
「落とし穴、杭、縄、矢……!」
「正面から戦ってすら——」
最後まで言えなかった。
将の額に、青筋が浮かんでいる。
「……たった数十の伏兵に」
拳が震える。
「騎兵が削られただと?」
沈黙。誰も目を合わせられない。
「……舐められたな」
吐き捨てるように言った。
「森に隠れ、コソコソと脚だけ狙う」
「騎士への侮辱だ」
バンッ!!
地図台を蹴飛ばす。
「もういい」
顔を上げた目には、理性がなかった。
「焼け」
「は?」
「森も村も畑も全部だ」
「皆殺しにしろ」
周囲がざわつく。
「将軍、それでは占領後の統治が——」
「知るか!!」
怒声。
「こんな姑息な真似をする連中は根絶やしだ!」
「兵を集めろ」
「全軍投入だ」
「三百では足りん。五百だ。いや——」
少し考え。
「八百動かす」
空気が変わった。それはもう討伐ではない。
侵攻軍 だった。
「歩兵、弓兵、工兵、投石機も出せ」
「道を塞ぐ物は全部潰せ」
「村は焼け。人は縛れ。抵抗したら斬れ」
低い声で、最後に言う。
「——見せしめだ」
兵たちが一斉に動き出す。
重装歩兵。長槍隊。弓隊。補給車。
地面が震える。
ドドドドド……
もはや“軍勢”だった。
国境の森に、鉄の波が押し寄せ始める。
その頃、森の奥の監視所。
草を被った斥候が、息を呑んでいた。
「……おい」
隣に囁く。
「……数、おかしくないか?」
「……ああ」
目を凝らす。
街道の先。
土煙。
終わりが見えない。
「……三百じゃねぇ」
「五百……いや、もっとだ」
「……軍だぞ、あれ」
慌てて後退。
「クラウス様に報告だ!」
「全力で走れ!」
森を駆け枝を掻き分け、息を切らしながら。
数刻後、臨時指揮所。
報告を受けたクラウスは。
「……はは」
笑った。
「とうとうキレましたか」
副官が青ざめる。
「八百規模です……本格侵攻軍です」
「投石機も確認」
「……来ましたね。本気」
クラウスは地図を見る。
罠地帯。擬装村。野戦砦。
そして、静かに言った。
「予定通りです」
「……は?」
「だから言ったでしょう」
肩をすくめる。
「想定内です」
副官が目を丸くする。
「ここまで増えるのも?」
「ええ」
にやり。
「嫌がらせってのは、相手を怒らせて判断力を失わせるためにやるんですよ」
「大軍ほど、森では動きにくい」
「罠の餌食になるのは、むしろ多い方です」
そして振り向く。
「……ただし」
珍しく真顔になった。
「流石にこれは、父上にも知らせましょう」
「早馬を出せ」
「エドワルドにも」
「“遊びは終わり。本戦だ”ってな」
数日後。
元領主館の町。
エドワルドは帳簿を見ていた。
市場。配給。兵站。
ようやく落ち着き始めた日常。
そこへ。
バタバタと足音。
「エドワルド様!」
「どうした」
「西より早馬!」
嫌な予感がした。
封を切る。
クラウスの筆跡は短い。
だが。
内容は重い。
『隣国、八百規模の軍勢確認』
『遅滞戦術継続中』
『恐らく本格侵攻』
『準備されたし』
紙を持つ手が止まる。
レオンが横から覗く。
「……これは」
「ああ」
静かに言う。
「もう“様子見”じゃないな」
遠くの西の空を見る。
見えないはずなのに。
鉄の匂いが、風に乗って来る気がした。
「……戦争だ」
ぽつりと、呟いた。
救護でも保護でもない。
完全な。
「国同士の戦だ」
静かにだが確実に次の段階が、始まろうとしていた。




