01 不審が過ぎるぜ
大きな男が真横に吹き飛んで向かいの壁に激突した。男がすさまじい速度で通過した酒場の扉がきいきいと寂しげな音を立てている。暴力の匂いがした。
マンフレートは酒場の看板に目をやって立ち止まった。持ち上げるのも難しそうなサイズの男が重力を感じさせずに飛ぶような事態になっている場所だ。いくら目的地とはいえ、彼が躊躇するのも無理はない。
たっぷり十秒は間が空いて、そうしてひとりの人物が店から姿を現した。
マンフレートはいちど目をこすった。次に目を凝らした。見間違いを疑ったからだ。いま出てくるべきなのは男が壁に激突した原因のはずだった。しかし店から堂々と出てきたのは少女にしか見えない。身長も、体格も。表情だけは凶悪だが、それだけでさっきの巨体を吹き飛ばせるとはとても思えない。
「ぎゃはははは、ザマァねえなおい! こんなチビの一発にメロメロですってか!」
そこには威圧さえもなかった。ただ力比べに勝ったという感情だけがほとばしっている。ある種の純粋だった。
少女の肘までを包む金属製の手甲が太陽を浴びてきらりと光る。足取りや上体の動作からは重量に振り回されている感じを受けない。少女が倒れている巨体にずいっと迫った。
ひっ、と男が頭を守りながら怯えた。
「なんだァ?」
「よ、よせ。悪かった、俺が悪かった」
「バカ言え、お前が“売った”んだろ。んなこともわかんねえでカラまねえよな?」
ずどん、と音がした。見えない側の拳が動いたせいで、マンフレートからは彼女が何らかの素早い動作を起こしたことしかわからない。ただもちろんその動作がどんなものかは簡単に推測が立つ。
倒れていた巨体がさらに転がった。呼吸が苦しそうなところを見るに腹部のどこかに拳が入ったのだろう。もはやケンカになっていない。一方的な暴力。見ごたえは失われていた。興味本位で人垣を作っていた野次馬ももう背を向け始めている。
マンフレートの目もいつの間にか離れていく人々の姿を追っていた。偶発的に起きた見世物はもう終わったのだ。あれを相手に交渉するのか、とマンフレートは複雑な表情を浮かべてため息をついた。
その瞬間、金属と金属がぶつかったような甲高い音が響いた。驚いたマンフレートが振り返ると、さっきの大男がぐったりと地面に寝そべっていた。少女はほとんど嗜虐的な笑みを浮かべてそれを見下ろしていた。マンフレートは彼の顔の様子と色を変えた地面を見て、何が起きたのかを察した。
ついさっき十歩やそこらの距離でケンカ騒ぎがあったとは思えないほど、店内はふだんの活気に満ちていた。これもここの文化なのだとマンフレートは悟る。日常の落差。ケンカは騒ぎではなく、どちらかといえば出し物やイベントに近いのだ、と。頭痛に近いものを感じながらもマンフレートは空いているテーブル席に腰をかけた。スラム街の酒場には珍しく紙に書かれたメニューを眺める。
「おい店主、なんか上等なメシ頼むぜ! さっきのがアタシのやつ床にぶちまけやがったからな、ははは!」
店に戻ってくるなり少女は大声で注文を入れた。店内の騒がしさと似たような質に思えるのだが、どうしてか彼女の声は通る。マンフレートは声の先にいるわけではなかったが、少女の言葉がよく聞き取れた。
少女はまた別の空いたテーブル席に座った。さきほど活躍した両の手甲をテーブルの端に置き、背もたれに腕をかけて機嫌良さそうにしている。外でのケンカを考えると意外だった。ああいった手合いは食事の邪魔をされたことへのいら立ちを継続する傾向にある、というのがマンフレートの経験則だった。しかし思い出してみると外で暴れていたときの彼女の態度は怒りに任せたものではなかった。
やがてマンフレートは見ていたメニューをテーブルに戻して席を立った。
「ここ、座っていいかな」
「あぁ? よそ行きな、他も空いてんだろ」
「そうもいかなくてね。きみに用事があるんだ」
マンフレートは“きみ”の部分をわずかに強調して椅子を引いた。少女の目が観察のために色を変える。
「アタシに用事。不審が過ぎるぜ、お前」
「そいつはどうも。でもこっちも四の五の言ってられないから」
少女は片眉を上げる。
「アメリア、だったね。いい名前だ」
「ぎゃはは、聞いてんのは悪名だろ」
「悪名にも根拠がある」
わずかにひょうきんさを覗かせた物言いにアメリアはすこし不機嫌そうに鼻を鳴らした。しかし反論はしない。
「で、用事ってのはなんだよ。プロポーズってこともねえだろ」
「単純に依頼だ」
マンフレートが口を開くまでに短い間があった。そこには意を決するための時間が明確に含まれていた。お互いに見えていない部分のほうが多い。あるのは言葉上のやり取りだけで、目に見えるものではない。だというのにふたりは目をそらさなかった。何かの変化で隠れた何かが見えると確信しているようだった。
「依頼。依頼か。含まれてる意味わかってるよな?」
「もちろん報酬は出す。断る権利もある。あくまでこっちは頼む側だから」
アメリアは的外れの返答を聞いたと言わんばかりに鼻で笑う。
「馬鹿かよ、そんなのは二の次だろ。てめえは誰だって聞いてんだよ」
マンフレートは背もたれに身を預け、目を閉じてから額に手をやった。気付いていなかった焦りを自覚したらしい。一呼吸を置いて落ち着こうとしていることからもそのことが読み取れる。
意外なことにアメリアは急かさなかった。あるいは料理が届くのを待っているからその余裕があるだけのことかもしれない。
「……そうだな、すまない。俺はマンフレート。中心街のほうで店を営んでいる」
「商人ねえ、へえ?」
アメリアの表情がにやにやしたものに変わった。まるで優位な何かが手に収まったことを確信したような。ポーカーゲームで大物手を抱えたような。マンフレートはその表情に居心地の悪いものを覚えた。彼からすれば立ち位置が違うはずなのだ。一方的に情報をつかんだのも情報を明らかにしていないのもマンフレートの側であるはずだった。
アメリアがあごでしゃくって続きを促すとマンフレートはひとつ咳ばらいをした。
「依頼内容はハウス・リンデマンの壊滅」
「組織の壊滅かよ。穏やかじゃねえな」
「一から十まで命を奪おうってんじゃない。頭付近が崩れればあとは烏合だろう」
アメリアの指がこつこつとテーブルを叩く。なにかを鎮めるようなテンポだ。すくなくとも二つ返事で了承できるものではないらしい。しかし表情は変わっていない。片方の口の端が上がっている。
「……気に入らねえのはハウス・リンデマンを選んだ理由がまだねえことだ。口説くつもりならせめて納得はさせろよ」
「あそこの商売が気に入らなくてね。クスリを扱っているのは?」
「“医者殺し”だったか」




