第9話 未来への兆し
翌朝。
皐月はいつもより早く目を覚ました。
昨夜、蔵之介に言われた言葉が、頭から離れなかった。
――これから考えればいい。
自分の人生を、自分で選ぶ。
そんなことを考えたことなど、今まで一度もなかった。
桜庭伯爵家に生まれたときから、皐月の人生は決められていた。
女だから。
双子だから。
役に立たないから。
そう言われ続けて、自分で何かを望むことすら、いつの間にか諦めていた。
「……私が、選ぶ……」
小さく呟く。
すると、不思議なことに胸の奥が少しだけ軽くなった。
朝食の支度を終え、皐月が母屋へ戻ろうとした、そのときだった。
「皐月」
背後から声がした。
「……幸雄さん」
振り返ると、幸雄が立っていた。
いつものような酔った様子はない。
だが、顔にはどこか苛立ちが浮かんでいた。
「少し話がある」
「はい」
「ここではなんだ。俺の部屋へ来い」
皐月の胸がざわついた。
以前なら、呼ばれただけで身体が強張っていた。
それでも皐月は黙って幸雄の後をついていった。
◇
幸雄の部屋。
襖が閉じられる。
皐月は畳の上に正座した。
幸雄は少し離れた場所に座ると、しばらく何も言わなかった。
「……」
「……」
やがて、幸雄が口を開く。
「お前」
「はい」
「俺との暮らしに、不満はあるか?」
突然の質問だった。
「不満……ですか?」
「ああ」
皐月は考えた。不満なら、いくらでもある。
けれど、それを口にしたことはなかった。
「……ありません」
反射的に答える。
幸雄は眉をひそめた。
「本当に?」
「はい」
「俺が家にあまり帰らなくても?」
「……はい」
「女遊びをしていても?」
皐月の指先が、わずかに震えた。
幸雄は、それを見逃さなかった。
「どうした?」
「……いえ」
「何か言いたそうだな」
「そんなことはありません」
「そうか」
幸雄は目を細めた。
「お前は、本当に変な女だな」
まただ。 以前なら、その言葉だけで心が折れていた。けれど今は。
――この人は、私が何かを知っていると思っている。
そう分かっているから、以前ほど怖くなかった。
「それで……お話というのは?」
皐月が尋ねる。幸雄はしばらく黙っていた。そして、低い声で言った。
「俺たちは、結婚してからまだ四か月だ」
「はい」
「だが……」
幸雄が視線を逸らす。
「どうにも、うまくいっていない」
「……」
「お前もそう思っているだろう?」
皐月は答えられなかった。
「俺は、お前を幸せにできない」
その言葉に、皐月の胸が締めつけられた。
幸せにする。
そんな言葉を、幸雄から一度でも言われただろうか。
考えてみても、思い出せない。
「だから……」
幸雄が言葉を濁す。
「だから、何でしょう?」
「……いや」
幸雄は一度口を閉じた。
だが、やがて決心したように言った。
「もしだ」
「はい」
「もし、お前がこの家を出たいと思っているなら……」
皐月は顔を上げた。
「出てもいい」
「……え?」
「俺も、そのほうがお前のためだと思っている」
心臓が大きく鳴った。
「それは……」
喉が震える。
「離縁……ということでしょうか?」
幸雄は答えなかった。
ただ、目を逸らした。
その沈黙が、答えだった。
「……そういうことだ」
皐月の胸に、冷たい風が吹き抜けたような気がした。
離縁。
結婚を終わらせる。
妻ではなくなる。
その言葉が、頭の中を何度も巡る。
「私は……」
何を言えばいいのか分からなかった。
「お前だって、俺と一緒にいても幸せじゃないだろ」
「……」
「だから、考えておけ」
幸雄は立ち上がった。
「今すぐ答えを出せとは言わない」
「……はい」
「俺も考える」
襖へ向かう。
そして、ふと思い出したように振り返った。
「それから」
「はい」
「蔵之介とは、あまり親しくするな」
皐月は目を見開いた。
「なぜですか?」
「白鷺家の人間同士だ。妙な噂を立てられたら困る」
「……蔵之介さんは、私に何もしていません」
「そういう問題じゃない」
幸雄は吐き捨てるように言った。
「俺の妻なんだから、少しは自覚しろ」
「私はあなたの所有物ではありません」
皐月の力強い言葉に、幸雄は黙った。
そしてそのまま部屋を出ていった。
◇
一人残された皐月は、しばらく動けなかった。
――離縁。
その言葉が、何度も胸の中を巡る。
桜庭家へ戻されるのだろうか。
それとも。
どこか別の場所へ行けるのだろうか。
不安はある。
怖くないと言えば嘘になる。
女が一人で生きていくことが、簡単ではないことくらい皐月にも分かっていた。
けれど。
不思議だった。
以前なら、離縁を告げられたら、必死になって縋っていただろう。
捨てないでください、と。
妻でいさせてください、と。
けれど今は、胸の奥に、別の感情が生まれていた。
――もし、本当に自由になれるのなら。
何をしたい?
昨日、蔵之介に聞かれた問い。
その答えを、皐月はまだ知らない。
でも。初めて考えてみたいと思った。
「……自由に、なれるのかしら」
小さく呟く。
そのときだった。
障子の向こうから声がした。
「皐月さん?」
「……蔵之介さん?」
障子が開く。
蔵之介が立っていた。
「幸雄さんと話していましたか?」
「はい」
「何かありましたか?」
皐月は答えようとして、口を閉じた。
――離縁を言われました。
そう伝えればいい。
けれど、なぜか言葉にできなかった。
「……大したことではありません」
皐月は微笑んだ。
蔵之介は、皐月の顔をじっと見た。
「そうですか」
「はい」
「では、そういうことにしておきます」
追及しない。
いつもの蔵之介だった。
「ただ」
蔵之介は静かに言った。
「困ったことがあるなら、いつでも言ってください」
「……はい」
「一人で抱え込まなくていい」
その言葉に、皐月の目が少し潤んだ。
「ありがとうございます」
蔵之介は、それ以上何も言わなかった。
ただ、皐月の隣に静かに座った。
その距離が、不思議と心地よかった。
◇
その日の夜。
幸雄は百合子の部屋を訪れていた。
「話した」
「皐月さんに?」
「ああ」
百合子は静かに幸雄を見る。
「何て言ったの?」
「離縁を考えている、と」
「それで?」
「まだ返事はない」
「そう」
百合子は微笑んだ。
「なら、時間の問題ね」
幸雄は黙っていた。
「あなた、本当に離縁するつもりなの?」
「ああ」
「皐月さんを桜庭家へ返すの?」
「……それはまだ分からない」
「私は、戻してしまえばいいと思うけど」
百合子は冷たく笑った。
「もともと、あの人はこの家に必要なかったんだから」
幸雄は返事をしなかった。
だが。
その脳裏には、皐月の顔が浮かんでいた。
以前なら、自分に怯えて、何を言われても俯いていた。
それなのに最近は違う。
何かを知っているような目をする。
まるで。
自分の隠していることを、すべて見透かしているような目。
「……気味が悪い」
幸雄は小さく呟いた。
そして。
自分でも気づかないまま、離縁という選択に逃げ込もうとしていた。
秘密を知られる前に。
皐月を、この家から追い出すために。
◇
同じ夜。
離れの縁側で、皐月は一人、夜空を見上げていた。
離縁。
その言葉を思い返す。
怖い。
でも。
なぜだろう。
胸の奥に、ほんの少しだけ――期待があった。
もし、幸雄との婚姻が終わったら。
自分は何を選べるのだろう。
どこへ行けるのだろう。
何をして生きられるのだろう。
答えはまだ分からない。
けれど。
昨日までなら考えもしなかった未来を、今の皐月は考え始めていた。
その小さな変化こそが。
長い間閉ざされていた、皐月自身の人生の扉を。
ゆっくりと開き始めていた。




