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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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第8話 離縁の相談

 白鷺家に嫁いで、四か月。


 皐月は、幸雄との会話が少なくなったことに気づいていた。

 もともと、夫婦らしい会話などほとんどなかった。

 幸雄は朝から店へ出ても、皐月に声をかけることはない。

 夜になって帰宅しても、酒を飲み、皐月の顔を見ることなく自室へ入る。

 それなら、それでいい。

 皐月にとっては、そのほうが気が楽だった。


 幸雄の顔を見ると、あの夜の残響が蘇る。

 金庫を開ける手。

 盗み出される金。

 遊郭の女の姿。

 自分の知らない夫の顔。

 触れてしまったことで知ってしまった過去。


 あれ以来、皐月は幸雄に触れないようにしていた。

 そして幸雄もまた、皐月に触れようとしなくなった。

 夫婦の間には、目に見えない壁ができていた。


 けれど。


 その壁を作ったのは、皐月だけではなかった。


「……気味が悪い」


 幸雄は、皐月を見るたびにそう思うようになっていた。

 何を考えているのかわからない。

 以前は、何を言っても「はい」と答えていた。


 何を頼んでも逆らわなかった。


 叱れば俯いた。


 怒鳴れば怯えた。


 それなのに。


 最近の皐月は違う。


 怯えてはいる。


 だが、目の奥に、何かがある。

 まるで、自分の知らないことを知っているような目。

 それが、幸雄には恐ろしかった。


 ◇


 その日の夕方、幸雄は店の帳場にいた。


「旦那様」


 番頭が帳面を差し出す。


「今月分の支払いですが……」


「ああ」


 幸雄は面倒そうに帳面を受け取った。

 数字が並んでいる。

 最近、店の金の出入りが妙に細かくなっていた。

 理由はわかっている。

 自分が金庫から抜いているからだ。

 少額ずつなら、誰も気づかない。

 そう思っていた。


 だが、最近、皐月が帳簿を見るようになってから。

 どうにも落ち着かない。


「この数字……」


 幸雄は帳簿を睨んだ。

 もし皐月が気づいていたら。

 もし、あの女が誰かに話していたら。

 そう考えるだけで、腹の底が冷たくなる。


「旦那様?」


「何でもない」


 幸雄は帳簿を閉じた。

 そのとき、店先から女の声が聞こえた。


「幸雄さん」


 百合子だった。幸雄は顔を上げる。


「何だ?」


「少し、お話があります」


「ここでいいだろ」


「二人で話したいの」


 幸雄は面倒そうに立ち上がった。

 そして、奥の部屋へ入る。

 百合子も続いた。襖が閉じられる。


「何だ?」


「最近の皐月さんのことよ」


 幸雄の顔が曇った。


「……あいつがどうした」


「あなた、避けているでしょう?」


「別に」


「嘘」


 百合子は静かに言った。


「以前は、少なくとも妻として扱っていた」


「……」


「今は、まるで他人じゃない」


 幸雄は黙っていた。

 百合子は、そんな幸雄をじっと見る。


「何かあったの?」


「……あの女は、おかしい」


「皐月さんが?」


「ああ」


 幸雄は声を潜めた。


「俺が何をしたのか、知っているような目をする」


「何をしたって……」


「金庫のことだ」


 百合子の眉が動いた。


「……まさか」


「俺が金を抜いていることを、あいつは知っている」


「どうして?」


「それがわからない」


 幸雄は苛立ったように頭を掻いた。


「帳簿を見たのかもしれない」


「でも、それだけなら……」


「違う」


 幸雄は首を振る。


「俺が金庫を開ける前から、あいつは俺を見ていた」


「……」


「あいつと話していると、まるで腹の中まで見透かされているような気がするんだ」


 百合子の顔から、少しずつ表情が消えていく。


「気味が悪い」


 幸雄が呟いた。


「正直、もう一緒に暮らしたくない」


 百合子はしばらく黙っていた。


 そして。


「……離縁すればいいじゃない」


 幸雄が顔を上げた。


「え?」


「離縁よ」


「だが……」


「あなたが嫌なら、そうすればいいでしょう」


 百合子は淡々と言った。


「もともと、あなたと私は夫婦だったのよ」


 その言葉に、幸雄の目が揺れる。


「お前は……」


「私は何?」


「皐月を追い出したいのか?」


「当然でしょう」


 百合子は笑った。

 けれど、その笑顔には嫉妬が滲んでいた。


「あなたの妻として、あの人が家にいる必要なんてないもの」


「しかし、桜庭伯爵家の娘だぞ」


「だから何?」


「離縁となれば、向こうも黙ってはいない」


「なら、理由を作ればいいでしょう」


 幸雄は黙った。百合子は続ける。


「夫婦としてうまくいっていない」


「……」


「家の仕事もできない」


「それは……」


「あなたとの関係も悪い」


「……」


「理由なら、いくらでもあるわ」


 幸雄は腕を組んだ。


「だが、あいつを追い出したら……」


 言葉が止まる。

 幸雄が本当に恐れているのは、皐月が家から出ていくことではない。

 皐月が、自分の秘密を誰かに話すことだった。


「……あいつは、何か知っている」


 幸雄が低く呟いた。


「それなら、なおさら早いほうがいいわ」


 百合子の声は冷たかった。


「何か問題を起こす前に、白鷺家から出してしまえばいい」


「……」


「あなたも、そのほうが楽でしょう?」


 幸雄は答えなかった。

 けれど。

 心の中では、すでに答えが出ていた。


 ――離縁したい。


 あの目を見るのが怖い。

 自分の過去を知っているかもしれない女を、妻として置いておくなど耐えられない。


「……わかった」


 幸雄は呟いた。


「離縁を考える」


 百合子の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「そう」


「ただし、桜庭家がどう出るかだ」


「そのときは、私も協力するわ」


 百合子は立ち上がった。


「あなたが本当に私を選んでくれるなら」


 幸雄は答えなかった。

 だが、百合子はそれを肯定と受け取った。


 ◇


 そのころ、皐月は台所で夕食の支度をしていた。


 魚を焼く。


 味噌汁を温める。


 米をよそう。


 いつもの仕事。


 けれど。


 胸の奥が、なぜか落ち着かなかった。

 ふと、手を止める。

 幸雄と離縁する。

 そんなことを考えたことがなかった。

 結婚したのだから。

 一生、この家で生きるのだと思っていた。

 夫に愛されなくても。

 蔑まれても。

 役に立たなくても。

 それが自分の人生なのだと思っていた。


 けれど、最近は違う。

 蔵之介と話すようになってから。

「自分で選ぶ」という言葉を知った。

 もし、幸雄と離縁することになったら......自分は、どうするのだろう。


 桜庭家へ戻る?それだけは嫌だった。

 なら、どこへ行く?

 皐月には、まだ答えがなかった。


「……私、どうしたいのかしら」


 小さく呟く。

 そのとき、台所の入り口に、人影が現れた。


「皐月さん」


「……蔵之介さん?」


 蔵之介が立っていた。


「夕食を運びに来てくれたのですか?」


「はい」


「ありがとうございます」


 皐月は膳を整える。

 蔵之介は、皐月の顔を見つめた。


「何かありましたか?」


「……え?」


「今日は、少し様子が違います」


「そんなこと……」


 皐月は首を振った。


「何でもありません」


 蔵之介は無理に聞かなかった。


「そうですか」


 そして、少し間を置いて。


「何かあれば、いつでも話してください」


 皐月は顔を上げた。

 その言葉が、今の自分には、何よりありがたかった。


「……はい」


 皐月は微笑んだ。


「ありがとうございます」


 蔵之介も微笑む。


「では、いただきます」


「どうぞ」


 皐月は膳を置いた。

 離れから戻ろうとした、そのとき。


「皐月さん」


「はい?」


「明日の午後、時間はありますか?」


「明日……ですか?」


「少し、見せたいものがあります」


「何でしょう?」


「まだ秘密です」


 そう言って、蔵之介は珍しくいたずらっぽく笑った。

 皐月も、思わず笑ってしまった。


「わかりました」


 母屋へ戻る道すがら、皐月は、ふと空を見上げた。

 夜空には、細い月が浮かんでいる。

 その月を見ながら胸の奥で、小さな予感がした。


 何かが。

 少しずつ変わり始めている。

 夫との関係も、白鷺家での自分の立場も、そして蔵之介との関係も。


 けれど皐月は、まだ知らなかった。


 その夜、幸雄と百合子が、自分との離縁について話し合っていたことを。

 そして。

 幸雄が離縁を決意したことが、やがて皐月自身にとって、人生を変えるきっかけになることを。

 皐月はまだ、自分の未来が、どこへ向かっているのか知らなかった。


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