第7話 白鷺家の離れ
白鷺家に嫁いで、三か月。
皐月は、少しずつ離れで過ごす時間が増えていた。
きっかけは、蔵之介だった。
離れの掃除を任されるようになり、食事を運ぶようになり。
いつの間にか、蔵之介の身の回りのことまで手伝うようになった。
母屋にいるより、ずっと気が楽だった。
誰も怒鳴らない。
何をしても文句を言われるわけではない。
皐月が帳面を整理していれば、「助かります」と言ってくれる。
お茶を淹れれば、「ありがとうございます」と言ってくれる。
そんな当たり前の言葉が、皐月には、とても新鮮だった。
「……おかしいわ」
皐月は縁側に座り、洗濯物を畳みながら呟いた。
最近、鼻歌を歌うことが増えた。
今日も気づけば、幼いころに乳母が歌っていた古い童歌を口ずさんでいる。
「ふふ……」
自分で笑ってしまった。
その声を聞きつけたのか、障子が開いた。
「楽しそうですね」
「……!」
蔵之介だった。
「聞いていたんですか?」
「ええ」
「恥ずかしい……」
皐月は慌てて口を閉じる。
「どうして?」
「鼻歌なんて……」
「私は好きですよ」
「……」
皐月の手が止まった。
「そう、ですか」
「ええ」
蔵之介はそう言って、机の上の書類へ目を戻した。
皐月は顔が熱くなるのを感じた。
たった一言、それだけなのに。
胸さわぎがした。
けれど、蔵之介は何事もなかったように書類へ目を戻している。
――好き。
その言葉だけが、皐月の胸の中に残った。
もちろん、鼻歌のことだと分かっている。
分かっているのに。
なぜだろう。
胸の奥が、くすぐったい。
誰かに自分のすることを「好きだ」と言われたのは、いつ以来だっただろう。
幸雄からは、そんな言葉を一度ももらったことがない。
そう思った瞬間、皐月は慌てて首を振った。
比べてはいけない。
蔵之介さんは、ただ鼻歌を好きだと言ってくれただけ。
それなのに。
もう一度だけ、先ほどの言葉を思い出してしまう。
――私は好きですよ。
頬が、また熱くなった。
「……どうしてこんなに嬉しいんだろう」
小さく呟いた声は、自分にしか聞こえなかった。
「そういえば」
蔵之介が言った。
「昨日お願いした郵便局の件ですが」
「はい」
「助かりました」
「いえ」
「毎週お願いしてもいいでしょうか」
「もちろんです」
皐月は頷いた。
「火曜日ですね」
「よく覚えていますね」
「蔵之介さんのことですから」
言ってから、皐月は、はっとした。
「……その、仕事の予定ですから」
「そうですか」
蔵之介が笑う。
「ずいぶん私のことを覚えてくれていますね」
「……」
返事ができない。
実際には、皐月は蔵之介のことを、かなり詳しく知っていた。
毎週火曜日に郵便局へ行く。
朝は濃いめのお茶を好む。
仕事をするときは眼鏡をかける。
考え事をするとき、右手の指先で机を二度叩く。
夜遅くまで働いた翌日は、必ず少しだけ眠そうにする。
そんなことまで、皐月はいつの間にか覚えていた。
そして、その理由を考えるたび、胸が少しだけ苦しくなる。
自分は蔵之介のことが気になっている。
それを認めるのは、怖かった。
なぜなら、自分は幸雄の妻だから。
「皐月さん」
「はい?」
「何か悩み事でも?」
「いえ」
「そうですか」
蔵之介は、それ以上聞かなかった。
その距離感が、皐月には心地よかった。
無理に聞き出さない。
言いたくなったときに聞いてくれる。
それだけでよかった。
蔵之介が書類へ目を戻した。
皐月も自分の仕事へ戻ろうとした。
けれど。
なぜか、すぐには動けなかった。
机に向かう蔵之介の横顔を見る。
眼鏡の奥の目が、書類を追っている。
考え事をしているときは、右手の指先で机を二度叩く。
今日も。
とん、とん。
小さな音がした。
皐月は思わず笑ってしまう。
「どうしました?」
「いえ……」
「何か面白いことでも?」
「……考え事をしているとき、いつも指で机を叩かれますよね」
言った瞬間。
蔵之介の手が止まった。
「よく見ていますね」
「……」
皐月は答えられなかった。
「皐月さん?」
「……すみません」
「また謝りましたね」
「癖なんです」
蔵之介が笑った。
「では、その癖も少しずつ直していきましょう」
「……できますか?」
「できますよ」
「どうして?」
「私が見ていますから」
皐月は息を止めた。
「……え?」
「あなたが少しずつ変わっていくところを」
蔵之介は、それだけ言って書類へ視線を戻した。
皐月は何も言えなかった。
胸の奥だけが。
どうしてか、騒がしかった。
◇
その日の昼過ぎ。母屋から女中がやってきた。
「皐月さん」
「はい」
「お義母さまがお呼びです」
「わかりました」
皐月はすぐに母屋へ向かった。姑の部屋へ入る。
「失礼いたします」
「来たわね」
姑は座ったまま皐月を見る。
「今日は蔵之介さんのところへ何度行ったの?」
「何度……?」
「朝から三回は見かけたわ」
「食事を運んで、掃除をして……」
「それだけ?」
「はい」
姑はじっと皐月を見た。
「最近、あの子とずいぶん親しくしているそうね」
「そんなことは……」
「聞いたのよ」
姑は茶を一口飲む。
「あなたが、蔵之介さんの仕事を手伝っているって」
「少しだけです」
「あなたは幸雄の妻でしょう」
「……はい」
「なら、次男の世話ばかりしているのはおかしいでしょう」
皐月は俯いた。
「申し訳ありません」
「その謝る癖も、どうにかならないの?」
「……すみません」
「また」
姑は苛立ったように息を吐いた。
「それから」
姑の目が細くなる。
「百合子から聞いたわ」
「はい?」
「あなた、帳簿を見ているそうね」
皐月の胸が跳ねた。
「店の仕事を少しお手伝いしているだけです」
「女が商売のことに口を出すものじゃないの」
「……はい」
「余計なことはしないでちょうだい」
「承知しました」
皐月は深く頭を下げた。
「もう行っていいわ」
「失礼いたします」
部屋を出る。
廊下に出た瞬間、皐月は小さく息を吐いた。
胸が苦しい。
何をしても、何か言われる。
でも。
今日は、少しだけ違った。
以前なら、ただ俯いて終わっていた。
けれど今は。
――どうして?
という疑問が浮かぶ。
自分は何も悪いことをしていない。
ただ仕事をしているだけ。
百合子さんに頼まれて帳簿を見ているだけ。
それなのに、なぜ、こんなに責められるのだろう。
その疑問が生まれたこと自体、皐月にとっては大きな変化だった。
◇
夕方。
幸雄が帰宅した。
酒の匂いがする。
皐月は廊下の端へ避けた。
以前なら、目を合わせることさえ怖かった。
今でも怖い。
けれど、以前ほどではない。
「おい」
幸雄が立ち止まった。
「はい」
「お前、最近蔵之介と何をしている?」
「お仕事のお手伝いをしています」
「どんな?」
「郵便物の整理や、掃除などです」
「それだけか?」
「はい」
幸雄が皐月をじっと見る。嫌な視線だった。
「……本当に?」
「はい」
「なら、あいつに何か聞かれなかったか?」
「何をでしょう?」
「俺のことだ」
皐月の心臓が跳ねた。
「幸雄さんの……?」
皐月は黙った。幸雄が一歩近づく。
「お前、何か知ってるだろ」
「……何も」
「本当か?」
「はい」
幸雄の顔が歪む。
「お前は気味が悪い」
その言葉に、皐月の胸が痛んだ。
けれど、以前のように、ただ傷つくだけではなかった。
幸雄の顔を見る。
そして思う。
この人の過去を、私は知っている。
金庫から金を持ち出していたことも、女遊びをしていたことも、自分に隠れて何をしていたのかも。
それを知っているのは、私だけ。
そう思うと、ほんの少しだけ背筋が伸びた。
「……失礼します」
皐月は頭を下げ、その場を離れた。
幸雄は呆然と、その背中を見送った。
以前なら、何を言われても俯いていた。
今日は違った。
――あの女。
幸雄の胸に、不安が広がる。
「本当に……何も知らないのか?」
だが、その答えを確かめる方法を、幸雄は知らなかった。
◇
夜。
離れへ戻った皐月は、蔵之介の机の上に置かれた書類を整理していた。
「今日は、ずいぶん疲れていますね」
蔵之介が言った。
「……少しだけ」
「母屋で何か?」
「大したことではありません」
「そうですか」
蔵之介は皐月を見た。
「では、今日は仕事を終わりにしましょう」
「でも、まだ……」
「続きは私がやります」
「ですが」
「あなたが倒れたら困ります」
以前と同じ言葉。皐月は、思わず笑った。
「また、それを言うんですね」
「何度でも言いますよ」
「……ありがとうございます」
皐月は立ち上がった。そのとき、机の上に置かれた一枚の紙が床へ落ちた。
「あっ」
皐月が拾う。外国語で書かれた手紙だった。
「これは……」
「触らないで」
蔵之介の声が、珍しく鋭くなった。
「……!」
皐月の手が止まる。蔵之介はすぐに表情を戻した。
「すみません」
「いえ……」
「重要な書類なので」
「申し訳ありません」
「だから、あなたは謝りすぎです」
蔵之介は苦笑した。そして手紙を受け取る。
「これは白鷺屋の輸出に関するものです」
「輸出……」
「ええ」
蔵之介は手紙を封筒へ戻した。
「今、白鷺屋はかなり儲かっています」
「そうですね」
「ですが」
蔵之介は窓の外を見た。
「この景気は、長く続かないと思います」
「どうしてですか?」
「戦争です」
皐月は黙った。
「今、海外では戦争が続いています。そのため、向こうで陶器が不足している」
「だから、日本の陶器が売れる」
「その通りです」
蔵之介は頷いた。
「でも、戦争が終われば?」
皐月は言葉を失った。
「……売れなくなる?」
「少なくとも、今ほどではないでしょう」
蔵之介の声には確信があった。
「だから私は、白鷺屋の今の繁栄を信用していません」
「では……」
「独立します」
「え?」
皐月は目を見開いた。
「私は横浜へ行きます」
「横浜……?」
「翻訳の仕事を、自分で始めるつもりです」
皐月は驚いた。この人は、もう白鷺家の外で生きることを考えている。
「白鷺家は……?」
「離れます」
「家族なのに?」
「家族だからです」
蔵之介は静かに答えた。
「家族だからこそ、これ以上巻き込まれたくない」
皐月は、その言葉を聞いて胸が痛んだ。
自分も、いつか桜庭家から離れたいと思ったことがある。
けれど、自分には行く場所がなかった。
「皐月さん」
「はい」
「あなたなら、どうしますか?」
「私……?」
「もし、誰にも命令されず、自分で人生を選べるとしたら」
皐月は答えられなかった。
そんな人生を想像したことがない。
いつも誰かに決められてきた。
桜庭家に生まれたこと。
女として生まれたこと。
幸雄へ嫁ぐこと。
白鷺家で暮らすこと。
全部、自分では選べなかった。
「……わかりません」
やがて皐月は答えた。
「考えたことが、ありませんから」
蔵之介は皐月を見つめた。
「では」
「はい」
「これから考えればいい」
皐月は目を瞬いた。
「これから……」
「ええ」
蔵之介は微笑んだ。
「人生は、まだ長いですから」
その言葉が。皐月の胸の奥へ、静かに落ちていった。
離れを出ようとしたときだった。
「皐月さん」
背後から呼ばれて、皐月は振り返った。
「はい?」
「明日の朝は、ここへ来なくても構いません」
「……え?」
「腕が痛むでしょう」
皐月は自分の腕を見た。
赤く腫れた跡が残っている。
「これくらい、大丈夫です」
「そう言うと思いました」
蔵之介が小さく笑った。
「だから、私からお願いしているんです」
「お願い……?」
「明日は少し休んでください」
皐月は返事に困った。
今までなら。
誰かに頼まれたら、必ず「はい」と答えていた。
けれど。
この人の言葉には、なぜか逆らいたくなかった。
「……分かりました」
「約束ですよ」
「はい」
皐月は頷いた。
そして廊下を歩き出す。
数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「……蔵之介さん」
「はい?」
「蔵之介さんも、ちゃんと休んでくださいね」
言ってから。
皐月自身が驚いた。
そんな言葉を、誰かに掛けたことがなかった。
蔵之介も少し驚いた顔をしていた。
やがて。
「ありがとうございます」
柔らかく笑った。
「皐月さんにそう言ってもらえると、嬉しいですね」
「……そう、ですか」
「ええ」
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。
嬉しい。
そう言ってもらえたことが。
なぜだろう。
自分でも理由が分からなかった。
けれど、その夜。
布団に入ってからも、蔵之介の笑顔が何度も浮かんだ。
そして同じころ。
東京の別の場所では、桜庭朔弥が、またひとつ、自分でも理解できない「過去」を見ていた。
その残響の中に。
白鷺屋。
蔵之介。
そして、妹、皐月の姿があった。
だが、それが何を意味するのか朔弥には、まだわからなかった。




