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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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第6話 桜庭家の残響 

 そのころ。

 浅草から少し離れた場所にある、桜庭伯爵家では、朝から重苦しい空気が流れていた。

 皐月が嫁いでから数ヶ月。

 屋敷の中では、彼女がいなくなったことなど話題にすらならなくなっていた。

 もともと皐月の存在は、桜庭家にとって喜ばしいものではなかった。


 男女の双子。

 それだけでも、古い因習を重んじる者たちからは忌み嫌われる。

 まして、兄の朔弥には残響視の兆しがある。

 皐月にはない。

 その差は、幼いころから二人の扱いを分けた。


 そして今。

 桜庭家当主である伯爵は、執務室の机に両手をついていた。


「……またか」


 机の前には、ひとりの青年が立っている。

 桜庭朔弥。

 皐月の双子の兄だった。

 十九歳。

 皐月とよく似た目元をしている。

 だが、その顔には妹にはない鋭さがあった。

 もっとも、今の朔弥には、その鋭ささえも失われかけていた。


「申し訳ありません」

「謝れば済むと思っているのか」

「……」

「昨日も今日もだ」


 父親の声が響く、朔弥は黙っていた。

 額には汗が浮かんでいる。


「何を見た?」

「……わかりません」

「わからない?」


 伯爵の眉が跳ね上がる。


「残響視を使ったのだろう?」

「はい」

「ならば、見たものを報告しなさい」

「それが……」


 朔弥は目を閉じた。

 頭の奥に、昨夜の光景が蘇る。

 黒い馬車。

 雨。

 誰かの手。

 血のように赤い布。

 男の声。

 ――そして、海。


 だが。

 それが誰の記憶なのか、何を意味するのか、朔弥にはわからなかった。


「最初は、軍服を着た男が見えました」

「それで?」

「次に、議員らしき男が」

「それから?」


 朔弥は困惑したように眉を寄せた。


「議員が、誰かに何かを渡していました」

「何を?」

「わかりません」

「顔は?」

「見えませんでした」


 伯爵が机を叩いた。


「役立たず!」


 その声に、朔弥の肩が跳ねる。


「お前は何のために残響視を継いだ!」

「……」

「皐月と違って、お前には力がある!」

「……はい」

「なのに、肝心なところになると何も見えない!」


 朔弥は唇を噛んだ。

 悔しかった。

 自分だって、見ようとしている。

 父の期待に応えたい。

 桜庭家の役に立ちたい。

 だから何度も人に触れた。

 物に触れた。

 過去を見ようとした。

 けれど、最近の残響視は、以前とは違っていた。

 以前なら、ある程度は整理された光景を見ることができた。

 ところが最近は、別人の記憶が混ざる。

 過去と現在の境目が曖昧になる。

 誰かに触れたはずなのに、まったく別の人間の記憶が流れ込んでくることさえある。

 しかも、その映像は、現実なのか、残響視が見せた断片なのか。

 朔弥自身にも判断できなくなっていた。


「もう一度、見ろ」


 父親が言った。


「はい……」

「今度こそ、正確に見ろ」


 朔弥は机の上に置かれた一枚の封筒へ手を伸ばした。

 その封筒には、海外から届いた印が押されている。

 指先が触れた。

 ――瞬間。世界が暗転した。

 轟音。

 人々の叫び。

 燃える建物。

 逃げ惑う群衆。

 軍靴の音。

 そして、巨大な旗が翻っている。


「――っ!」


 朔弥は手を離した。その場に膝をつく。


「朔弥!」

「……父上」

「何を見た!」

「戦……」


 息が乱れている。


「戦争です」

「どこの戦争だ?」

「わかりません」

「役立たずめ!」


 伯爵は吐き捨てた。

 朔弥は床を見つめた。

 悔しい。

 怖い。

 自分の頭の中に、自分のものではない光景が入り込んでくる。

 それでも、父に認めてもらいたかった。


「……もう一度」


 朔弥は立ち上がろうとした。だが。


「必要ない」


 父親は冷たく言った。


「お前のような不安定な力では、重要な仕事は任せられん」

「……」

「皐月を嫁に出したのも、そのためだ」


 朔弥が顔を上げる。


「皐月を……?」

「余計なことを考えるな」


 伯爵は椅子へ座った。


「お前は自分の力を安定させることだけ考えろ」

「はい……」


 朔弥は頭を下げた。

 けれど、その言葉が、胸に引っかかった。

 皐月を嫁に出した理由。

 単に忌み子だからではない。

 なら、なぜ?その答えを知ることができるほど、朔弥の力は安定していなかった。

 むしろ。真実へ近づくほど、彼の残響視は壊れていくようだった。


 ◇


 その日の夜。

 桜庭家の奥座敷。

 普段、家族の食事に使われることのない部屋に、数人の男たちが集まっていた。

 桜庭伯爵。

 その側近。

 そして、政界と軍部につながりを持つ者たち。

 部屋の外には、誰も近づけないよう使用人が立たされている。


「では、始めよう」


 伯爵が口を開いた。

 机の上には、いくつかの書類が並べられていた。

「現在、諸外国との情勢は変化している」


 男の一人が頷く。


「ええ。ですが、問題は国内です」

「そうだ」


 伯爵は指先で机を叩いた。


「日本国は、今後さらに西洋との関係を深めるだろう」

「それが気に入らない、と?」

「単純な話ではない」


 伯爵は低い声で続ける。


「国を動かす者たちは、自分たちに都合のいい情報しか見ていない」

「だからこそ」


 別の男が言った。


「桜庭家の力が必要になる」


 部屋が静かになった。

 残響視。

 触れた相手の過去や心を見る異能。

 人間の記憶。

 隠された秘密。

 本人すら忘れている過去。

 それを読み取ることができるなら。

 政治家の弱みを知ることもできる。

 交渉相手の過去を探ることもできる。

 誰が誰とつながっているのか。

 何を恐れているのか。

 何を隠しているのか。

 その情報を積み重ねれば、人間を動かすことができる。


「すでに何人かには接触している」


 桜庭伯爵が言った。


「残響視によって、秘密を確認している」

「それで?」

「思った以上に使える」


 男が薄く笑った。


「ならば、もっと利用すればいい」

「問題は、力を持つ者が少ないことだ」

「朔弥がいる」

「しかし、不安定だ」


 桜庭伯爵の顔が曇る。


「最近のあいつは、見たものを正確に判別できなくなっている」

「それでは困りますな」

「だからこそ、皐月を外へ出した」


 男たちが顔を見合わせる。


「妹のほうですか?」

「あれは残響視を持たないと思われていた」

「ならば、なぜ?」


 伯爵はしばらく黙った。


「……念のためだ」

「念のため?」

「桜庭家の血筋だ。何が起きるかわからない」


 男の一人が苦笑した。


「しかし、白鷺家へ嫁がせたところで、何か役に立つとは?」

「白鷺屋は海外との取引が多い」


 桜庭伯爵は答えた。


「異国人と接触する機会も多い。情報を集めるには都合がいい」

「なるほど」

「それに」


 桜庭伯爵は声を落とした。


「白鷺家には、海外事情に詳しい男がいる」

「次男の?」

「そうだ」

「蔵之介ですか」


 桜庭伯爵は頷いた。


「彼を利用できれば、さらに多くの情報が手に入る」


 その言葉に。部屋の空気が変わった。


「ですが、あの男は簡単ではありません」

「承知している」

「白鷺家そのものを信用していない」

「だからこそ、皐月を使う」


 伯爵は淡々と言った。


「夫の妻として、あの男に近づけばいい」


 その言葉に。誰かが笑った。


「なるほど」

「皐月本人は何も知らない」

「それが一番都合がいい」


 桜庭伯爵は目を細めた。


「何も知らない女ほど、扱いやすいものはない」


 その会話を、誰も聞いていなかった。

 ただ、廊下の奥、襖の向こう側でひとりの人物が、息を殺して立っていた。


 そして、その部屋から少し離れた場所。

 自室に戻った朔弥は、机の前に座っていた。

 父親から渡された古い箱。

 そこには、桜庭家の残響視について書かれた記録が入っている。

 朔弥は一枚の紙を取り出した。

 そこには、こう書かれていた。


 ――残響視は、見る者の精神状態により、残響の強さが変化する。

 ――過去を見ようとする欲が強すぎれば、残響に呑まれる。

 ――複数の人間の記憶を重ねて見た場合、真実を誤認する可能性あり。

 ――なお、残響の中に聞こえる声や感情は、現在の本人のものとは限らない。

 過去に強く残された感情や言葉が、現在の出来事のように感じられることがある。


「……誤認」


 朔弥は、その文字を指でなぞった。

 今日、自分が見たもの。

 戦争、燃える街、軍人。

 翻る旗。

 あれは本当に未来ではなく、過去だったのか?

 そもそも。

 自分が見ているものは、本当に触れた相手の記憶なのか?

 疑問が頭から離れない。

 朔弥は額を押さえた。


「……僕は、何を見ている?」


 答えはなかった。

 ただその瞬間、ふと、妹の顔が浮かんだ。

 皐月。

 もう白鷺家に嫁いでいる。

 幼いころから、いつも自分の後ろを歩いていた。

 何か言いたそうにしていても、最後には黙る。

 泣いていても、誰かが来るとすぐに涙を拭う。

 兄である自分にも。助けを求めることはほとんどなかった。


「……皐月」


 朔弥は呟いた。そして、妙な違和感を覚えた。

 妹が嫁いだ日の朝、馬車に乗り込む皐月の手。

 その指先、あの日、皐月は何かを言おうとしていた。

 けれど、言わなかった。


「……僕は」


 朔弥は目を閉じた。

 何もしてやれなかった。

 妹が家から追い出されるように嫁いでいくことを。

 見ていただけだった。

 そのとき、机の上に置いていた古い写真へ、朔弥の手が触れた。


 ――ぞくり。


「……!」


 また、残響視が発動した。

 だが、今度は、違った。

 幼い自分。

 幼い皐月。

 二人で庭を走っている。

 笑っている。

 その次の瞬間、同じ庭に、父親が立っている。

 父の声。


『朔弥、お前は、余計なことをするな』


 場面が変わる。

 皐月がひとりで座っている。

 泣いている。

 それを見ている自分。

 助けようとして、何もできない。

 そして最後に、見知らぬ黒い部屋。

 皐月が誰かに触れている。

 その瞬間、大量の記憶が、まるで濁流のように押し寄せてきた。


「――うわああっ!」


 朔弥は写真を投げ捨てた。

 床に倒れ込む。頭が割れるように痛い。

 何だった?最後に見えたものは。

 皐月?それとも……別の誰か?

 朔弥には、もう判断できなかった。


 ただ一つ、はっきりしていたことがある。

 皐月には何かがある。

 自分とは違う、自分よりも強い何かがまだ眠っている。

 そのことだけは、なぜか、確信できた。

 けれど。

 その事実を父親に話せば皐月は、今度こそ桜庭家から逃げられなくなる。

 朔弥は震える手で顔を覆った。


「……皐月」


 誰にも聞こえない声で、妹の名前を呼ぶ。


「どうか……帰ってくるな」


 それが妹を突き放す言葉なのか。

 それとも、妹を守るための言葉なのか。

 朔弥自身にも、もうわからなかった。

 ただ、桜庭伯爵家の地下深くで「残響視」を利用した、恐ろしい計画が。静かに動き始めていた。


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