第5話 あたたかな縁側で
翌朝。
皐月が目を覚ますと、左の手首がまだ少し痛んだ。
昨日、幸雄に掴まれたところだった。
薄紫色の痕が残っている。
皐月は袖を引き下ろし、それを隠した。
見られたくなかった。
誰かに心配されるのが、怖かった。
心配されたら、自分が弱い人間なのだと認めてしまいそうだった。
それに、蔵之介に心配をかけたくない。
なぜそう思うのか、自分でもよくわからない。
ただ、あの人の前では、できるだけ困った顔をしたくなかった。
これまでの人生で、誰かに好かれるために自分を取り繕ったことなどない。
好かれるはずがないと思っていたからだ。
だから、嫌われないようにすることだけを考えてきた。
怒らせない。
逆らわない。
目立たない。
役に立つ。
それだけでよかった。
けれど、蔵之介には――なぜか、嫌われたくないと思ってしまう。
「……変なの」
皐月は小さく呟き、いつものように仕事へ向かった。
朝餉の支度に洗濯、掃除、店の手伝い。
白鷺家の一日は、今日も慌ただしく始まった。
昼前、姑に呼び止められる。
「皐月さん」
「はい」
「離れへ食事を持っていってちょうだい」
「承知しました」
「蔵之介さんは、朝からずっと仕事をしているの。それから、部屋の掃除もお願い。あの子は自分では何もしないでしょう」
姑は、嫌そうに鼻を鳴らした。
皐月は黙って頭を下げた。
蔵之介が仕事をしていることは知っている。
けれど、それが白鷺家にとってどれほど重要なものなのかは、まだ知らなかった。
――彼がただの書生ではないことも。
皐月は膳を持って、離れへ向かった。
廊下を歩いていると。庭から子どもの声が聞こえた。
「皐月!」
振り返る。
雄一が立っていた。
手には、また木の棒を持っている。
皐月は足を止めた。
「何でしょう?」
「どこ行くの?」
「離れへ食事を運びます」
「蔵之介のところ?」
「はい」
「ふうん」
雄一は皐月の足元を見る。
そして、にやりと笑った。
「その草履、昨日濡らしたやつ?」
皐月は答えなかった。
「まだ履いてるんだ」
「使えるものですから」
「ぼろぼろなのに?」
「……まだ履けます」
雄一は木の棒で皐月の草履をつついた。
「僕なら捨てるけどな」
そして、棒を足元へ振り下ろした。
皐月は、とっさに避けた。
「危ないですよ」
「避けた!」
雄一が楽しそうに笑う。
「もう一回!」
また棒が振られる。
皐月は後ろへ下がった。
その拍子に、持っていた膳が傾く。
「――あっ」
味噌汁がこぼれそうになった。
皐月は慌てて膳を支える。
けれど、その隙に雄一が足を引っかけた。
「きゃっ……!」
身体が大きく揺れる。
膳が落ちる。
皐月は目を閉じた。しかし、床に落ちる寸前、横から伸びた手が、膳を受け止めた。
「危ない」
低い声。
皐月が目を開く。
蔵之介だった。
「……蔵之介さん」
蔵之介は片手で膳を持ち、もう片方の手で皐月の腕を支えている。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
皐月は慌てて離れようとした。
「申し訳ありません」
「なぜあなたが謝るんです?」
「それは……」
言葉に詰まる。
蔵之介は雄一を見る。
雄一は気まずそうに木の棒を背中へ隠した。
「雄一」
声は静かだった。
それなのに、雄一の顔から笑みが消えた。
「……なに?」
「その棒を置きなさい」
「嫌だ」
「置きなさい」
今度は少しだけ低くなった。
雄一は唇を尖らせながら、棒を地面に置いた。
「母ちゃんに言うから」
「どうぞ」
蔵之介は淡々と答えた。
「私からも話します」
「……」
雄一は何も言えなくなった。
そして、走って母屋へ戻っていった。
皐月は呆然と、その背中を見ていた。
「……ありがとうございます」
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
蔵之介の視線が、皐月の手首へ落ちる。
袖の隙間から、昨日の痕が少しだけ見えていた。
「それは?」
「……」
皐月は袖を引いた。
「昨日、少しぶつけただけです」
「そうですか」
蔵之介は何も言わなかった。
ただ、皐月が隠したことを、見なかったことにしてくれた。
「食事を運びます」
「ええ」
「お部屋へ」
「今日は外で食べましょう」
「え?」
蔵之介は庭を指差した。
「天気がいいので」
「でも……」
「たまにはいいでしょう」
皐月は少し迷った。
それから。
「……はい」
小さく頷いた。
二人は離れの縁側に並んで座った。
皐月が膳を整える。蔵之介が箸を取る。
「いただきます」
「どうぞ」
しばらく、静かな時間が流れた。
庭では風が木の葉を揺らしている。
遠くから、店の掛け声が聞こえてくる。
母屋とは違う。
ここだけ時間がゆっくり流れているようだった。
「……美味しいです」
「本当ですか?」
「ええ」
「よかった」
皐月は、ほんの少し笑った。蔵之介が箸を止める。
「今、笑いましたね」
「え?」
「いえ」
蔵之介は何でもないように食事へ戻った。
皐月は頬が熱くなった。
自分が笑ったことが恥ずかしかった。
けれど、嫌ではなかった。
「蔵之介さんは……」
「はい」
「いつも、おひとりで食事をされるのですか?」
「だいたいは」
「寂しくありませんか?」
口にしてから、皐月は後悔した。
余計なことを聞いた。
「申し訳ありません」
「どうして謝るんです?」
「……余計なことを」
「構いませんよ」
蔵之介は庭を見た。
「慣れていますから」
その言葉に、皐月は、以前残響視で見た光景を思い出した。
雨。
ひとりで家を出ていく背中。
誰にも見送られなかった少年。
「……蔵之介さん」
「はい」
「子どものころから、ひとりだったんですか?」
蔵之介の手が止まった。皐月は息を呑んだ。聞いてはいけなかった。
「……どうして、そう思うんです?」
「……」
答えられない。
あなたの過去を見たから、そんなことは言えない。
「なんとなく……」
皐月は俯いた。
「そうですか」
蔵之介は怒らなかった......しばらく沈黙したあと。
「少しだけ、話しましょうか」
そう言った。
「私の家のことを」
皐月は顔を上げた。
「……はい」
蔵之介は、ゆっくりと息を吐いた。
「私は、白鷺家の次男です」
「……え?」
皐月の目が丸くなる。
「次男……?」
「ええ」
「でも……」
思わず口をつぐむ。
書生だと思っていた。
白鷺家に出入りする、少し変わった青年。
それくらいにしか考えていなかった。
蔵之介は苦笑した。
「驚きましたか?」
「はい……」
「普段、母屋へ行かないので、知らない人が多いんです」
「どうして……」
「私が家を出たからです」
「家を……?」
「正確には、追い出されたわけではありません。自分から離れました」
蔵之介の声は淡々としていた。
「子どものころから、私は本を読むのが好きでした」
「外国の本も?」
「ええ。日本にない知識を知るのが面白かった」
その言葉に、皐月の胸が少しだけ痛んだ。
自分も、知りたいことがあった。
けれど、知ることを許されなかった。
「外国語も、独学で覚えたんですか?」
「最初はそうです」
蔵之介は遠くを見るような目をした。
「父は商売に必要なものだけ覚えればいいと言いました。でも私は、それだけでは足りないと思った」
「それで……」
「外国の本を読みました。新聞も取り寄せました。商人と話し、船員から話を聞きました」
「すごい……」
皐月はまた、同じ言葉を口にしていた。
「そうでもありません」
「いいえ」
皐月は首を振った。
「私にはできません」
「あなたは算術が得意でしょう」
「……どうして」
「帳簿を見ればわかります」
皐月は驚いた。
「見ていたんですか?」
「あなたが数字を直しているところを」
「……」
「かなり正確です」
胸の奥が、ほんのり温かくなった。
誰かに能力を認められた。
ただ、それだけのことなのに。
「でも」
蔵之介の声が低くなる。
「白鷺家では、私が勉強することを嫌がる人間もいました」
「なぜですか?」
「次男だからです」
「……」
「商家では、長男が家を継ぐ」
蔵之介は膝の上で手を組んだ。
「私は、家督を継ぐつもりはありませんでした。だからこそ、好きなことを学んでいた」
「それなのに?」
「兄が面白くなかったのでしょう」
皐月は、幸雄の顔を思い浮かべた。
「兄は、私が外国語を話せることを嫌っていました」
「……」
「父も、最初は私の力を使おうとしました」
蔵之介は笑った。
けれど、その笑顔には苦さがあった。
「海外の商人と話すときだけ私を呼ぶ。契約書を読むときだけ私を必要とする」
「それは……」
「それ以外では、家族ではないように扱われました」
皐月は何も言えなかった。
胸の奥が痛んだ。
それは、自分と同じだった。
役に立つときだけ、必要とされるときだけ、人として見てもらえる。
それ以外では、邪魔な存在。
「だから、離れにいるんですか?」
「ええ」
「おひとりで?」
「そのほうが楽です」
蔵之介は空を見上げた。
「誰かの期待に応えなくていい」
その言葉が、皐月の胸に深く刺さった。
自分も、そんなふうに生きてみたい。
誰かの期待ではなく、自分がしたいことをして、自分が好きなものを好きだと言って自分で生きる。
そんな人生を。
「……羨ましいです」
気づけば、口から言葉がこぼれていた。
蔵之介が皐月を見る。
「あなたは?」
「私は……」
言葉が続かない。
桜庭家でのことを話したら、異能のことまで話してしまいそうだった。
だから、俯いた。
「私は、何もありません」
蔵之介は静かに皐月を見た。
「それは違うでしょう」
「……え?」
「あなたには、あなたにしかないものがあります」
「私にしかないもの」
「そう、人には価値があります」
蔵之介は淡々と言った。
「少なくとも、私はそう思います」
皐月の胸が、大きく鳴った。
そんなこと、今まで誰にも言われたことがなかった。
役に立たなければ価値がない。
賢ければ疎まれる。
可愛げがなければ嫌われる。
そう思っていた。
でも、この人は違う。
「……ありがとうございます」
皐月は小さく笑った。
「笑いましたね」
蔵之介も笑った。
その瞬間、皐月はふと気づいた。
以前、残響視で見た少年。
あの少年と、今、自分の前で笑っている青年が、初めて重なった。
「蔵之介さん」
「はい」
「私も……」
皐月は言いかけた。
けれど、怖くなった。
桜庭家のこと、幸雄のこと、残響視のこと。
まだ話せない。
それでも。
いつもの会話。
いつもの距離。
なのに。
今日は、なぜか落ち着かなかった。
皐月は蔵之介の横顔を見る。
残響視。
触れれば、この人の過去を見ることができる。
幼いころ。
家を出た日のこと。
一人で雨の中を歩いたこと。
誰にも頼らず、生きてきたこと。
それらは見えた。
けれど。
今、この人が何を思っているのか。
それだけは分からない。
皐月は、自分の手を見つめた。
もし。
触れれば分かるのなら。
知りたい。
蔵之介は、自分をどう思っているのか。
ただ同情しているだけなのか。
それとも。
――。
でも。
知ることが怖い。
そして何より。
もし残響視で答えを知ってしまったら。
自分が蔵之介を選んだのか。
蔵之介に選ばれたから、そばにいるのか。
分からなくなってしまう気がした。
だから。
これは、自分の目で確かめたい。
自分の耳で聞きたい。
自分の心で決めたい。
「皐月さん?」
「はい」
皐月は顔を上げた。
「私……」
言葉が止まる。
怖い。
それでも。
「……いつか、ちゃんと聞きたいことがあります」
蔵之介は少し驚いた顔をした。
「分かりました」
「その時は答えてくれますか?」
「もちろんです」
その返事を聞いて。
皐月は初めて、自分から未来を待ってみたいと思った。
蔵之介は、少しだけ目を細めた。
「本当ですか?」
「ええ」
「いつか……」
「いつでも」
その答えに、皐月の胸が弾んだ。
自分から「話したい」と思えたこと。
それだけでも、今までの自分とは、少し違っていた。
その日の夕方。
皐月は母屋へ戻った。
廊下を歩いていると、百合子とすれ違う。
「あら」
百合子が皐月を見る。
「今日はずいぶん長く離れにいたのね」
「……はい」
「蔵之介さんと、何をしていたの?」
「食事を運んで……少し話をしました」
「そう」
百合子の顔から、一瞬だけ笑みが消えた。
「ずいぶん親しくなったのね」
「そんな……」
「まあ、いいわ」
百合子は微笑んだ。
けれど、その目には、明らかな嫉妬が宿っていた。
「ただ、忘れないでね」
「……何をでしょう?」
「あなたは幸雄さんの妻なのよ」
皐月は黙った。
「蔵之介さんと仲良くするのもほどほどに」
「はい」
「それと」
百合子は皐月の袖口を見た。
「あなた、最近少し楽しそうね」
「……」
「ここへ来たばかりのころは、何をしても怯えていたのに」
百合子の声は柔らかかった。
だからこそ、怖かった。
「人間って、少し優しくされるとすぐ変わるものなのね」
皐月は何も答えられなかった。
百合子はそのまま去っていく。
廊下に一人残される。
皐月は胸元へ手を当てた。
少しだけ苦しい。
けれど、それ以上に、今日、蔵之介と話したことが嬉しかった。
自分の話を聞いてくれる人がいる。
いつか話してもいいと言ってくれる人がいる。
それだけで、世界がほんの少しだけ、違って見えた。
その夜、離れでは、蔵之介が一人で机に向かっていた。
机の上には、海外から届いた手紙と英字新聞。
そして、白鷺屋の帳簿が一冊。蔵之介は帳簿を閉じた。
「……そろそろか」
小さく呟く。
戦争によって膨らんだ海外輸出。
白鷺屋は、今が絶頂だった。
けれど、この繁栄が、永遠に続くわけではない。
英字新聞には、戦況の変化を示す記事が載っている。
蔵之介は、その文字を指でなぞった。
「この家に、長くいるつもりはない」
そして。今日、縁側で笑っていた皐月の顔を思い出す。
「……あの人だけは」
蔵之介は言葉を止めた。
自分でも、何を言おうとしたのかわからなかった。
ただ、あの笑顔を、もう一度見たい。そう思った。
そのころ皐月は、自室で眠りにつこうとしていた。
目を閉じる。
すると、今日の蔵之介の言葉が蘇る。
『あなたには、あなたにしかないものがあります』
皐月は布団の中で、そっと笑った。
その笑顔は、自分でも気づかないほど自然なものだった。
そして、白鷺家で初めて、皐月は明日が来ることを、少しだけ楽しみに思った。




