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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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第4話 白鷺家での日々

 白鷺家へ嫁いで、二ヶ月が過ぎた。

 春はもう終わりに近づいていた。

 庭の桜はすっかり散り、若葉が枝を覆っている。

 けれど、皐月にとって白鷺家での日々は、少しも明るくならなかった。


 朝は早い。

 まだ空が白み始める前に起き、身支度を整える。

 井戸から水を汲み、炊事場へ運ぶ。

 洗濯をし、廊下を掃き、姑の部屋を整える。

 朝餉の支度が終われば、店へ行く。

 商家の仕事は、華族の屋敷で暮らしていた皐月が想像していたより、ずっと忙しかった。

 それでも、仕事そのものは嫌いではなかった。

 何かをしていれば、余計なことを考えなくて済む。

 人の顔色を窺っているより、帳面に並んだ数字を追っているほうが楽だった。

 数字は嘘をつかない。

 正しく計算すれば、正しい答えが出る。

 人の心とは違う。


「おい」


 背後から声がした。

 皐月が振り返る。

 そこには雄一が立っていた。

 手には、いつもの木の棒が握られている。


「……雄一くん」

「何してるの?」

「廊下のお掃除をしています」

「ふうん」


 雄一は皐月の手元を覗き込んだ。

 そして突然、箒を蹴った。


「!」


 箒が廊下の端まで転がっていく。

「雄一くん……」

「拾って」


 皐月は黙って箒を拾いに行った。

 怒ってはいけない。

 相手は子どもなのだから。

 そう思う。

 けれど、箒を握る手に、少しだけ力が入った。


「遅い!」


 背中に木の棒が当たった。


「っ……」


 鈍い痛みが走る。

 振り返ると、雄一が楽しそうに笑っていた。


「痛かった?」

「……少し」

「じゃあ、もう一回」


 棒が振り上げられる。

 皐月は、とっさに腕で庇った。


 ――ぱしん。


 乾いた音が廊下に響く。

 痛い。

 けれど、皐月は声を上げなかった。


「雄一!」


 そこへ百合子が現れた。雄一は棒を背中に隠す。


「母ちゃん」

「何をしているの?」

「遊んでた」

「そう」


 百合子は皐月を見る。


「皐月さん。あなたも大人なのだから、いちいち子どものすることに腹を立てないでちょうだい」

「……はい」

「雄一はまだ五歳よ」

「はい」

「あなたが上手に相手をしてあげればいいでしょう」

「……わかりました」


 百合子は雄一の頭を撫でる。


「さあ、お部屋へ行きなさい」

「うん!」


 雄一は嬉しそうに走っていった。

 皐月は、その背中を見つめた。

 腕がじんじんする。

 けれど、それよりも胸の奥のほうが痛かった。

 百合子は何も言わなかった。

 叱ることもしなかった。

 むしろ、皐月のほうが悪いような言い方をした。

 それでも皐月は、謝った。


「申し訳ありません」


 百合子の足が止まる。


「……あなたは、本当によく謝るのね」

「すみません」

「軽々しく、言わないようにね?」


 皐月は黙った。

 百合子は小さく息を吐く。


「今日は、私の部屋の掃除をお願い」

「はい」

「隅まできちんとね」

「承知しました」


 百合子が去っていく。皐月は箒を握り直した。


 その日の昼。皐月が自室へ戻ると、草履がなかった。


「……あれ?」


 玄関を探す。

 ない。

 下駄箱も。土間も。物置も。どこにもない。

 皐月は困った。

 外へ出る予定はなかったが、店へ行かなければならない。


「皐月さん」


 後ろから女中の声がした。


「草履なら、先ほど雄一坊ちゃまが持っていくのを見ましたよ」

「雄一くんが……?」

「ええ。裏庭のほうへ」


 皐月は裏庭へ向かった。

 すると、井戸の脇に、皐月の草履が片方だけ置かれていた。

 もう片方は、水桶の中に沈んでいる。


「……」


 皐月は言葉を失った。

 濡れた草履を取り出す。

 水が滴り落ちた。

 後ろから笑い声が聞こえる。


「見つけた?」


 雄一だった。


「雄一くん」

「濡れてるね」

「どうしてこんなことをするの?」

「だって、面白いから」


 雄一は悪びれもしない。


「それに、母ちゃんが言ってた」

「……何を?」

「新しい奥さんは、うちにはいらないって」


 胸が痛んだ。


「母ちゃんのほうが、父ちゃんにお似合いだって」

「……」

「僕も母ちゃんのほうが好き」


 雄一は得意そうに笑う。


「お前なんか、いなくなればいいのに」


 皐月は返事ができなかった。

 その言葉は、思った以上に深く刺さった。


 ――いなくなればいい。


 桜庭家にいたころも、何度もそう思われていたのだろう。

 だから白鷺家へ嫁がされた。

 必要とされているからではなく。

 いらないから。

 皐月は濡れた草履を拾い上げた。


「……ありがとう」

「え?」

「教えてくれて」


 それだけ言って、その場を離れた。

 雄一が不思議そうに皐月の背中を見る。

 皐月は泣かなかった。

 泣くことも、弱音を吐くことも。

 いつの間にか、できなくなっていた。


 その夜。

 皐月は離れへ食事を運んだ。

 最近、蔵之介から頼まれて、離れの掃除や食事の世話をすることが増えている。

 母屋にいるよりも、ここにいるほうが心が落ち着いた。


「どうぞ」


 膳を置く。


「ありがとうございます」


 蔵之介は書類から顔を上げた。


「……手を」

「え?」

「怪我をしています」


 皐月は自分の腕を見る。

 朝、雄一に棒で叩かれたところが赤くなっていた。


「これくらい、大したことありません」

「誰にやられました?」

「……転んだんです」

「そうですか」


 蔵之介は、それ以上聞かなかった。

 けれど、その目は、少しだけ冷たくなった。


「食事を置いたら戻ります」

「皐月さん」

「はい?」

「無理をしないでください」


 その言葉に、皐月は一瞬だけ目を見開いた。


「……ありがとうございます」


 それだけ言って、頭を下げる。

 離れを出たところで皐月は、小さく息を吐いた。

 誰かに「無理をするな」と言われたのは、初めてだった。


 その夜。

 母屋では、幸雄が酒を飲んでいた。


「幸雄さん」


 百合子が隣に座る。


「最近、皐月さんが離れに行くことが多いでしょう?」

「そうだな」

「蔵之介さんのお世話をしているそうよ」

「……あいつの?」


 幸雄の眉が動く。


「ええ」

「何を話してる?」

「さあ」


 百合子は扇子を開いた。


「でも、ずいぶん楽しそうにしているみたい」


 幸雄は黙った。


「私には、あんな顔を見せたことがないのに」


 百合子の声に、わずかな嫉妬が混じった。幸雄は酒を飲む。


「別にいいだろ」

「本当に?」

「何がだ」

「あなた、最近皐月さんを気にしているでしょう?」

「……気にしてなんかいない」

「そうかしら」


 百合子は笑った。


「なら、どうしてあの人の前では、あんなに警戒するの?」


 幸雄の顔が強張った。

 あの夜から。

 幸雄は皐月を見るたび、妙な違和感を覚えていた。

 自分が何を考えているのか。

 何をしてきたのか。

 まるで知っているような目をする。


 先日もそうだった。

 幸雄が金庫の鍵を持って歩いているとき。

 皐月と廊下ですれ違った。

 ほんの一瞬、肩が触れた。

 その瞬間、皐月の顔から血の気が引いた。

 そして、幸雄のほうを見た。

 まるで、何かを見ているような目で。


「……あの女」


 幸雄は呟いた。


「何?」

「いや」


 幸雄は杯を置いた。

 皐月は何かを知っている。

 そう思うようになっていた。

 ただの勘ではない。

 あの女は、自分が金庫から金を持ち出したことに気がついている。

 だが、どうして知った?

 誰かが見ていたわけではない。

 帳簿にもまだ決定的な証拠は残していない。


「気味が悪い……」


 幸雄の背筋を、冷たいものが走った。


 そのころ。

 皐月は自室で、両手を見つめていた。

 人に触れる。

 物に触れる。

 すると、過去が見える。

 幸雄と金庫。女遊び。

 金の使い込み。

 蔵之介の幼いころ。

 雨。

 ひとりで家を出ていく少年。


 あれ以来、皐月は誰かに触れることが怖くなっていた。

 知らなくていいことまで知ってしまう。

 人の心の奥にあるものを、勝手に見てしまう。

 そんな力を怖いと思う。


「……このままでいいの?」


 自分に問いかける。

 答えは出ない。

 ただ。もう、何も知らないふりをすることに疲れていた。


 その翌朝。

 皐月が台所へ向かう途中だった。

 廊下の角から、幸雄が現れた。


「おい」

「……はい」

「こっちへ来い」


 皐月は足を止めた。


「何でしょうか」

「手を出せ」

「え?」

「いいから」


 皐月は恐る恐る手を差し出した。

 幸雄が、その手首を掴む。


 ――瞬間。


 頭の中に、また映像が流れ込んできた。

 金庫。夜。札束。

 そして、遊郭で別の女の肩を抱く幸雄。

 皐月は息を呑んだ。


「……っ」


 幸雄も、皐月の表情を見ていた。

 明らかに怯えている。

 けれど、それだけではない。

 まるで、自分の中を覗き込まれたような。

 そんな不気味さがあった。


「……お前」


 幸雄の声が低くなる。


「何を知っている?」

「……何も」

「嘘をつくな」


 腕を強く掴まれる。皐月は痛みに顔を歪めた。


「本当に……何も」

「なら、どうしてそんな顔をする?」


 答えられない。言えるはずがない。


 ――あなたの過去が見えたから。


 そんなこと。


「……気味が悪いんだよ」


 幸雄が吐き捨てた。

 その言葉に、皐月の胸が凍った。

 けれどその瞬間、廊下の向こうから、静かな声が響いた。


「その手を離してください」


 幸雄が振り返る。そこに立っていたのは、蔵之介だった。

 黒い書生服。手には数冊の洋書。

 いつもの穏やかな表情。

 けれど、その目だけが、ひどく冷たかった。


「……蔵之介」


 幸雄の顔が強張る。


「何だ。お前には関係ないだろう」

「そうでしょうか」


 蔵之介はゆっくり歩いてくる。


「彼女が嫌がっているように見えますが」


 幸雄は舌打ちし、皐月の手を放した。

 皐月は反射的に手首を抱えた。


「……ふん」


 幸雄が去っていく。

 蔵之介は、その背中を黙って見送った。

 そして、皐月へ視線を戻す。


「大丈夫ですか?」

「はい……」

「皐月さん」

「はい」

「あなたは、悪くありません」


 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。

 皐月は俯いた。

 泣きそうになった。

 でも、泣く代わりに。


「……ありがとうございます」


 そう言って、ほんの少しだけ笑った。

 蔵之介は、その笑顔を静かに見つめていた。


「あなたは笑ったほうが素敵です」

「......え」

「素敵です」


 蔵之介の瞳は優しく、声色は春の陽だまりのように柔らかく穏やかだった。

 その声に触れた瞬間、皐月の凍りついていた心に、ぽっと小さな灯火がともる。

 それは、誰にも触れられなかった心の奥を、そっと包み込むようなぬくもりだった。

 ――この人のそばにいると、もう一度、人を信じてもいいと思える。

 そんな淡い想いが、皐月の胸に芽吹き始めていた。

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