第3話 見えてしまった過去
朝が来ても、皐月はほとんど眠れなかった。
昨夜の出来事が、何度も頭の中に蘇ってくる。
幸雄の手。
肩に触れた瞬間に流れ込んできた、見知らぬ光景。
薄暗い部屋。
金庫。
積み上げられた紙幣。
そして、幸雄の声。
『これだけあれば、しばらく遊べる』
あれは夢だったのだろうか。
そう思おうとした。
けれど、夢にしては鮮明すぎた。
目を閉じると、今でもはっきりと思い出せる。
「……残響視」
皐月は小さく呟いた。
その言葉を口にしただけで、背筋に冷たいものが走った。
桜庭家に伝わる異能。
触れたものに残された過去の残響を読み取る力。
兄の朔弥には、わずかな兆しがある。
けれど、自分にはない。
ずっと、そう思っていた。
「私にも……あったの?」
誰もいない部屋で呟く。返事はない。
障子の向こうでは、朝の白い光が庭を照らしている。
けれど皐月の胸の中は、まだ夜のままだった。
昨夜、幸雄が見せたもの。
それは、ただの浮気だけではない。
店の金を持ち出していた。
あれが本当なら、大変なことだ。
白鷺屋は大きな商家だ。
金庫から金を持ち出すなど、店の者に知られればただでは済まない。
まして夫が犯人なら。
皐月は、どうすればいいのかわからなかった。
誰かに話すべきだろうか。
姑に?百合子に?それとも幸雄本人に?考えて、すぐに首を振った。
駄目だ。
そんなことを言えば、どうなるかわからない。
何より、自分が見たことを、どう説明すればいいのだろう。
「触れただけで、幸雄さんの姿が見えました」
そんな話をすれば、頭がおかしくなったと思われるに決まっている。
それに。
異能を持つことが知られれば、実家にも知らされる。
今まで「役立たず」と呼ばれていた自分が、突然異能を発現したと知ったら。
桜庭家は、自分をどうするだろう。
「……知られたくない」
皐月は膝の上で手を握った。
知られたくない。
怖い。
だから、この力のことは、誰にも言わない。
そう決めた。
だが、その決意は、その日の昼前には揺らぐことになる。
「皐月さん」
廊下から声がした。
「はい」
襖を開けると、百合子が立っていた。
「これから店へ行くの。あなたも手伝ってちょうだい」
「はい」
皐月はすぐに立ち上がった。
店先では、朝から慌ただしく人が動いている。
白鷺屋は陶器の卸を主な商いとしていた。
皐月が嫁いでから知ったことだが、最近は海外への輸出も盛んらしい。
店の奥には、見たこともないほど精巧な西洋皿や花瓶が並べられていた。
「触らないでね」
百合子が言う。
「高価な品だから」
「はい」
「あなたはまだ、この店のことを何も知らないでしょう」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわ」
百合子は少し困った顔をした。
「ただ……覚えてほしいの」
「はい」
百合子は皐月に帳面を渡した。
「この数字を確認して」
皐月は帳面を覗き込む。
数字は得意だった。
女学校でも、算術だけは成績がよかった。
けれど。桜庭家では、それを褒めてもらえなかった。
『女が数字など覚えて何になる』そう言われたからだ。
皐月は帳面をめくった。
しばらくして。
「あの……」
「何?」
「こちらの数字ですが」
皐月は指を差した。
「在庫数と売上金が合っていないような気がします」
百合子が目を細める。
「よく気づいたわね」
「申し訳ありません」
「だから、謝らなくていいのよ」
百合子は帳面を受け取った。
「……確かにおかしいわ」
皐月は黙った。
自分の知識が役に立った。
それが、ほんの少し嬉しかった。
けれど、その感情を顔に出してはいけない気がして。
すぐに俯いた。
「あなた、もしかして」
「はい?」
「頭がいいのね」
その言葉に、皐月は身体を固くした。
「……そんなことは」
「女学校で成績がよかったでしょう?」
「普通です」
「普通?」
百合子が笑った。
「あなたのお義母さまから聞いているわ。算術は学年でも上位だったそうじゃない」
皐月は答えなかった。
褒められるのが怖かった。
期待されるのが怖かった。
頭がいいと言われると、そのあとに必ず、『女のくせに』という言葉が続くような気がした。
百合子はそんな皐月を見て、何かを察したようだった。
「今日はもういいわ。離れの掃除をお願い」
「はい」
皐月は頭を下げた。
離れへ向かう。
そこには誰も住んでいないはずだった。
けれど、廊下の角を曲がったところで、見知らぬ青年と鉢合わせた。
「あ……」
「……」
二人とも足を止めた。
青年は、皐月より少し背が高い。
二十代前半ほど。
黒髪を後ろへ撫でつけ、細身の洋装をしている。
手には数冊の本。
日本語ではない文字が表紙に並んでいた。
「失礼」
青年が先に口を開いた。低く、落ち着いた声だった。
「こちらに何か?」
「離れの掃除を……」
「そうですか」
青年はそれ以上何も言わなかった。
そのまま皐月の横を通り過ぎる。
けれど、皐月は、なぜか気になった。
この人は誰なのだろう。
白鷺家の人間だろうか。
それとも、店の関係者だろうか。
ただの書生なのだろうか。
そう思った瞬間。
青年が落とした本を拾おうとして、皐月の手と青年の手が触れた。
――瞬間。
「っ……!」
頭の中が白く弾けた。
雨。
少年。
庭先に立つ大人の男。
『お前は白鷺家の人間だ。余計なことをするな』怒鳴り声。
少年が唇を噛む。
場面が変わる。
机。
山のような外国語の本。
少年が必死に文字を書いている。
また変わる。
家の中。
若い頃の姑が泣いている。
父親だろうか、男が誰かを怒鳴っている。
そして、ひとりの少年が、家を出ていく。
雨の中......誰にも見送られずに。
「――っ!」
皐月は手を引いた。
青年が怪訝そうにこちらを見る。
「どうしました?」
「い、いえ……」
息が苦しい。
頭がくらくらする。
今のは、この人の過去。
間違いない。
幸雄に触れたときと同じだった。
けれど、今度は違う。
幸雄の過去には、嫌悪感があった。
この青年の過去には、寂しさがあった。
ひどく静かな寂しさ。
誰にも頼らず、ひとりで何かを学び続ける少年。
皐月は思わず青年を見つめた。
「……あなた」
「はい?」
「外国語を……」
青年がわずかに目を見開く。
「読めるのですか?」
「まあ」
「何語ですか?」
「英語です」
「英語……」
皐月は本を見た。
表紙には、見たことのない文字が並んでいる。
「ほかにも?」
「フランス語、ドイツ語、ロシア語……」
青年は淡々と答えた。
「必要なら、たいていの言葉は」
皐月は目を丸くした。
そんな人間がいるのだろうか。
「すごい……」
思わず口から出た。
青年が皐月を見る。
皐月は慌てて俯いた。
「申し訳ありません」
「なぜ謝るんです?」
「……癖なんです」
「そうですか」
青年は少しだけ笑った。
その笑顔は、ごくわずかなものだった。
けれど皐月には、それが妙に印象に残った。
「あなたは?」
「私は……」
皐月は言葉に詰まった。
桜庭家から嫁いできた、白鷺幸雄の妻。
それを言えばいいだけなのに。
なぜか言いたくなかった。
「皐月さん」
青年が言った。
「……え?」
「あなたの名前でしょう?」
皐月は驚いた。
「どうして……」
「先ほど、百合子さんが呼んでいました」
「あ……」
そうだった。店先で聞いたのだろう。
「失礼しました」
青年は頭を下げた。
「私は蔵之介です」
「蔵之介……さん」
皐月はその名前を繰り返した。
「はい」
白鷺蔵之介。
このときの皐月は、彼をただの書生だと思っていた。
白鷺家の次男であることも。
海外取引を支えるほどの天才であることも。
まだ何も知らなかった。
ただ。
触れたときに見えた過去だけが、妙に胸に残っていた。
――この人も。
ひとりなのだ。
その日の夕方。
皐月が夕食を運ぶため母屋へ戻ると、廊下の向こうから幸雄が歩いてきた。
幸雄は皐月を見るなり、足を止めた。
「おい」
「はい」
「昨夜のこと、誰かに話したか?」
皐月の心臓が跳ねた。
「……何のことでしょう」
「とぼけるな」
幸雄の目が鋭くなる。
皐月の指先が冷たくなった。
知っている。
幸雄も、何かを警戒している。
残響視で見たことを気付いたのかもしれない。
皐月は俯いた。
「私は……何も」
「本当だろうな?」
「はい」
「ならいい」
幸雄はそう言って去っていった。
その背中を見つめながら、皐月は初めて思った。
――この家では。
何も知らないふりをしているほうが、生きやすい。
けれどもう、知らないふりはできない。
見えてしまったのだから。
人の過去が。
そして、その過去の中に隠された真実が。
皐月は夕食の膳を抱え直した。
廊下の向こう、離れへ続く道を見つめる。
そこには、先ほどの青年――蔵之介がいる。
なぜだろう。
あの人の過去だけは、もう一度、見てみたいと思った。
それが、皐月自身の人生を大きく変えることになるとも知らずに。




