第2話 白鷺屋の花嫁
浅草を抜けるころには、陽が少しずつ西へ傾き始めていた。
馬車の窓から差し込む光が、皐月の膝元に淡い金色の帯を作っている。
東京の街並みは、桜庭家の屋敷から離れるほどに変わっていった。
華族の邸宅が並ぶ通りでは、門の向こうに広い庭が見えた。
けれど商家が増えてくると、通りには人の声が溢れ始める。
店先には色鮮やかな反物が並び、乾物屋からは威勢のいい声が飛ぶ。
荷車が行き交い、馬の蹄が石畳を叩く。
皐月は黙って窓の外を眺めていた。
白鷺家へ嫁ぐ。
その事実が、今になって重く胸にのしかかってくる。
幸雄という人が、どんな人なのか。皐月はほとんど知らない。
「……白鷺屋は、もうすぐです」
御者が声をかけてきた。
「はい」
皐月は姿勢を正した。
ほどなくして馬車が速度を落とす。
車窓の向こうに、大きな商家が見えてきた。
黒く艶のある木造の建物。
軒先には大きな暖簾が下がっている。
白地に描かれた鷺の紋。その下には、
――白鷺屋。
そう記されていた。
店の前には、いくつもの荷車が止まっている。
男たちが木箱を運び、店先では帳面を片手にした番頭が指示を出していた。
箱の隙間から、白い陶器の端が見える。
皐月は初めて見る商家の光景に、思わず目を奪われた。
活気がある。
桜庭家とはまるで違う。
屋敷の中では、誰かが笑うことすら憚られていた。
けれど、ここには人の声がある。
忙しそうに動き回る人々がいる。
それを見ていると、ほんの少しだけ胸が軽くなった。
――ここなら。
そんな期待が、ほんの一瞬だけ生まれた。
けれど、その期待は馬車から降りた直後に、あっさりと打ち砕かれた。
「まあ……」
玄関先に立っていた女が、皐月を上から下まで眺めた。
年齢は五十代ほど。
白髪の混じった髪をきっちりと結い、上等な着物を身にまとっている。
白鷺家の姑――幸雄の母だった。
「ずいぶん細いお嬢さんだこと」
「本日からお世話になります。桜庭皐月と申します」
皐月は深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
「……そう」
姑はそれだけ言うと、皐月の後ろを見た。
「荷物はそれだけ?」
「はい」
「まあ、伯爵家のお嬢様なのに。ずいぶん質素ね」
「必要なものは、これで……」
「ふうん」
興味がなさそうな返事だった。
そのとき、奥から女の声がした。
「お義母さま、お客様を玄関先に立たせたままではお気の毒ですわ」
皐月が顔を上げる。
一人の女が歩いてくる。
艶のある黒髪、上品な着物、整った顔立ち。
その姿には、商家の女主人らしい落ち着きがあった。
女は皐月の前で足を止める。
「初めまして。白鷺百合子と申します」
「……」
皐月は、息を呑んだ。この人が……夫の元妻。
「あなたが皐月さんね」
「はい」
「お待ちしていました」
百合子は柔らかく微笑んだ。
その笑顔には嫌味がない。
だからこそ、皐月は戸惑った。
「どうぞ中へ。長旅でお疲れでしょう」
「ありがとうございます」
皐月は頭を下げた。
そのとき、百合子の後ろから小さな男の子が顔を出した。
五歳ほどだろうか。
手には木の棒を持っている。
男の子は皐月を見るなり、じっと睨みつけた。
「この人が新しいお嫁さん?」
「雄一。ご挨拶なさい」
百合子がたしなめる。
「こんにちは」
「こんにちは」
雄一は口だけで挨拶をした。
そして、皐月の着物を見て鼻を鳴らした。
「へんなの」
「こら」
「だって、母ちゃんのほうがきれいだもん」
百合子が困ったように笑う。
「雄一、失礼でしょう」
「だって本当だもん」
皐月は何も言えなかった。胸の奥が少し痛んだ。けれど。
「……申し訳ありません」
口から出たのは、謝罪だった。百合子が目を瞬かせる。
「どうして謝るの?」
「いえ……」
答えられない。
自分でも、なぜ謝ったのかわからなかった。
ただ、誰かが不機嫌になりそうなとき。
昔から、皐月は先に謝る癖があった。
「変わった方ね」
百合子はそう呟いた。
その声音に、悪意はなかった。
けれど、少し離れたところから、低い声がした。
「何をしている」
皐月の身体が強張った。男が歩いてくる。
白鷺幸雄。
今日から夫となる男だった。
二十五歳。
仕立ての良い着物に身を包み、髪には香油が使われている。
顔立ちは整っている。
けれど、その目にはどこか軽薄な光があった。
「幸雄さん」
百合子が声をかける。
「皐月さんがいらっしゃったのよ」
「見ればわかる」
幸雄は皐月を見た。
一瞬だけ。
それから興味を失ったように視線を逸らした。
「桜庭家のお嬢様っていうから、もっと華やかな女かと思った」
「……申し訳ありません」
「また謝った」
幸雄が鼻で笑った。
「本当に愛想がないな」
皐月は俯いた。
何か言わなければ。
けれど、何を言えばいいのかわからない。
「まあ、いい」
幸雄は百合子へ向き直った。
「それより百合子。今夜の食事は?」
「もう手配してあります」
「さすがだな」
その声だけが、柔らかかった。
皐月は顔を上げた。
百合子を見る幸雄の目は、自分を見るときとはまるで違う。
それを見てしまった瞬間。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「では、私は部屋へ……」
「待って」
姑が言った。
「嫁が来たばかりだからって、客扱いする必要はないでしょう」
「……はい」
「今日から女中の仕事も覚えてもらいますよ」
「女中……ですか?」
「白鷺家の嫁になるのですから、当然でしょう」
「はい」
「まず、離れの掃除をしてもらいましょう」
皐月は頷いた。
こうして。華族令嬢だった皐月の、新しい生活が始まった。
その日から、皐月は朝から晩まで働いた。
掃除。
洗濯。
食事の支度。
井戸からの水汲み。
店の者への茶出し。
慣れない仕事に手間取れば叱られた。
幸雄の帰りが遅くても、妻なのだから待っていろと言われた。
けれど、幸雄はほとんど家にいなかった。
帰ってきても、皐月と話すことはない。
百合子の部屋にいるか。
外から連れてきた女の香りをまとっているか。
どちらかだった。
そして、そんな生活が一月ほど続いたころ。
その夜も。幸雄は深夜になっても帰ってこなかった。
皐月は一人、布団の上で正座していた。
蝋燭の火が、小さく揺れている。
外から虫の声が聞こえた。
静かな夜だった。
やがて、廊下から足音がした。
――ぎし。
――ぎし。
皐月は顔を上げた。
「幸雄さん……?」
襖が開いた。酒の匂いがする。
「まだ起きていたのか」
「はい」
幸雄が部屋へ入ってくる。
いつもより、目が据わっていた。
「今日は……遅かったのですね」
「うるさい」
「申し訳ありません」
「それだ」
幸雄が笑った。
「お前はいつもそれだな」
そして。皐月のすぐ前に座った。
「俺の妻なんだから、もっと妻らしくしろよ」
心臓が跳ねた。
「……妻らしく、とは」
「わからないのか?」
幸雄の手が伸びる。
皐月の肩に触れた。
「っ……」
身体が強張る。
逃げなければ。
そう思った。
けれど、身体が動かない。
幸雄の手が、さらに近づいてくる。
その瞬間だった。
――何かが、弾けた。
「――っ!」
皐月の頭の中に、見知らぬ光景が流れ込んできた。
暗い部屋。
金庫。
札束。
幸雄の手。
誰かの女の声。
そして――。
『これだけあれば、しばらく遊べる』
幸雄の声。
皐月は息を呑んだ。
目の前にいる幸雄と、頭の中に映った幸雄が重なる。
「いや……」
皐月は反射的に手を振り払った。
「なんだ、お前」
幸雄が怪訝そうに眉を寄せる。
皐月は自分の手を見た。
震えている。
何が起きたのかわからない。
けれど、確かに見えた。
幸雄が金庫を開けていた。
金を持ち出していた。
女と会っていた。
それは、記憶だった。自分の記憶ではない。
――幸雄の過去。
皐月は呆然とした。
胸の奥で、ずっと眠っていた何かが。
今、確かに目を開けた。
桜庭家に代々受け継がれてきた異能。
――残響視。
それが、自分の中にも確かに存在していたことを。
この夜、皐月は初めて知った。
そして同時に、自分が嫁いできた白鷺家が、決して穏やかな場所ではないことも。
知り始めていた。




