第1話 皐月の嫁入り
「明日、白鷺家から迎えが来ます。あなたは白鷺幸雄様の妻になるのです」
母の声は、ひどく淡々としていた。
「……はい」
◇
元号は明治から桜華へ。
東京の街には、新しい時代の幕開けを告げる旗が掲げられていた。
浅草の大通りを、洋装の紳士と着物姿の女たちが行き交う。
煉瓦造りの建物の向こうには、古い木造家屋が肩を寄せ合っている。
馬車が石畳を走り、ところどころに電灯が灯る。
けれど、一歩裏通りへ入れば、井戸から水を汲み、火鉢を囲み、手紙を届けるために人が走っていた。
新しいものと古いもの。
西洋と日本。
二つがまだ馴染みきらぬまま混じり合う街。
それが、桜華元年の東京だった。
◇
皐月は、膝の上で指を握りしめた。
十九年間暮らしてきた家を出る。
明日からは、白鷺家の妻になる。
そう聞かされても、実感はなかった。
ただ――。
「ただし――幸雄様には、別に愛する女性がいます」
その言葉だけは、胸の奥に冷たく残った。
「……愛する、女性?」
「百合子さんです」
母は当然のことのように答えた。
「幸雄様と百合子さんの間には、お子さんもいます」
「……」
皐月は何も言えなかった。
それなら、どうして。
どうして自分が、その人の妻になるのだろう。
その疑問を口にすることはできなかった。
幼いころから、皐月はそうやって生きてきた。
疑問を口にしない。
嫌だと言わない。
欲しいものを欲しいと言わない。
誰かに決めてもらったことに、「はい」と答える。
それが一番、傷つかない方法だった。
「白鷺家は、古くから続く立派な商家です」
母が続ける。
「華族の娘だからといって、偉そうにしてはいけません」
「はい」
「幸雄様にも逆らわないこと」
「はい」
「百合子さんは、幸雄様のことをよく知っています。商売のことも分かる方です。あなたは余計なことをせず、百合子さんの言うことを聞きなさい」
「……はい」
また、同じ言葉。
はい。
それ以外の返事を、皐月は知らなかった。
母が小さく息を吐く。
「本当に、あなたは昔から愛想がない子ね」
「申し訳ありません」
「ほら。また謝る」
皐月は口を閉じた。
何を言えば正解なのか。
何をすれば、誰かに認めてもらえるのか。
十九年生きてきても、まだ分からなかった。
「あなたは昔から、兄様とは違って何の役にも立たなかったものね」
皐月が生まれたのは、桜の花が満開の頃だった。
男女の双子。
それだけで、桜庭家では特別な目で見られていた。
この時代、男女の双子には古くからの俗信が残っていた。
――畜生腹。
――前世で心中した男女の生まれ変わり。
――家に災いを呼ぶ。
そんな迷信を、皐月は幼い頃から何度も耳にしてきた。
けれど、皐月が本当に「異端」とされた理由は、別にあった。
兄の朔弥には、桜庭家に代々伝わる異能――残響視があった。
物に触れることで、その物に残された過去の記憶を見る力。
強い感情を伴った記憶なら、映像だけでなく、声や感覚まで蘇ることがある。
桜庭家が長くその力を重んじてきたのは、そのためだった。
朔弥が物に触れるたび、大人たちは喜んだ。
「さすが桜庭家の跡取りだ」
「素晴らしい力ですね」
けれど――皐月が同じように物へ触れても、何も起こらなかった。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、物の冷たさや温もりが指先に伝わるだけ。
それが、皐月と朔弥の決定的な違いだった。
同じ日に生まれた兄妹なのに。
兄には「才能」があり、妹には「何もない」。
いつしか皐月は、家族からこう呼ばれるようになった。
――異能を持たない忌み子。
その言葉を聞くたび、皐月は何も言わずに俯いた。
言い返すことなど、できなかった。
自分でも、本当にそうなのだと思っていたからだ。
「だから、白鷺家へ嫁ぐのよ」
母の言葉に、皐月は顔を上げた。
「……私が?」
「そうです」
「でも、幸雄様には百合子さんが……」
「あなたは、その方と入れ替わるのです」
「……入れ替わる」
その言葉が、胸に刺さった。
妻になるのではない。
誰かの代わりになる。
それが自分の役目なのだ。
「百合子さんは離縁することになっています。ただし、白鷺家には残るそうです」
皐月は黙って聞いていた。
つまり。
自分が妻になったあとも、幸雄の愛する女性は同じ家にいる。
しかも、その女性には幸雄との間に子供がいる。
そんな場所へ、自分は嫁ぐ。
「……分かりました」
気づけば、またそう答えていた。
母は満足したように頷く。
「明日の朝には迎えが来ます。荷物をまとめておきなさい」
「はい」
襖が閉じる。
足音が遠ざかっていく。
皐月は一人になった。
静かだった。
庭から、風に揺れる木々の音が聞こえる。
桜華元年の春。
庭の桜は、もう散り始めていた。
皐月は障子を開けた。
縁側に、一枚の花びらが落ちている。
そっと拾い上げる。
薄くて、柔らかい。
指先に少し力を込めれば、簡単に壊れてしまいそうだった。
「……私も、こうなのかしら」
誰にも聞こえない声で呟いた。
触れれば壊れる。
けれど、壊れたものは。
もう元には戻らない。
皐月は、花びらを手のひらに包んだ。
自分も、いつか壊れてしまうのだろうか。
それとも。
壊れる前に、自分でここから逃げることができるのだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
けれど、すぐに打ち消した。
逃げるなんて、できるはずがない。
自分には何もない。
異能もない。
才能もない。
自分で何かを決めたことすら、ほとんどない。
だから――。
「白鷺家へ行けばいい」
皐月は自分に言い聞かせるように呟いた。
「妻になればいい」
それで、みんなが望むのなら。
それで、誰にも迷惑をかけないのなら。
それでいい。
そう思おうとした。
けれど。
胸の奥から、ほんの小さな声が聞こえた。
――本当に?
「……え?」
皐月は顔を上げた。
誰もいない。
庭にも。
廊下にも。
誰もいない。
ただ、風が吹いている。
桜の花びらが一枚、また一枚と落ちていく。
皐月は自分の胸に手を当てた。
どくん。
心臓が鳴った。
――本当に、それでいいの?
もう一度、そんな声が聞こえた気がした。
けれど、それは誰かの声ではなかった。
自分自身の声だった。
「……分からない」
皐月は俯いた。
自分が何を望んでいるのか。
自分がどう生きたいのか。
そんなことさえ、分からない。
だから、明日もきっと。
誰かに決められた人生を歩いていく。
そう思っていた。
◇
――翌朝。
「皐月様、お迎えが参りました」
「はい」
玄関先に、白鷺家の馬車が停まっていた。
皐月は小さな風呂敷包みを抱え、家を出た。
見送りに来た家族は少なかった。
父の姿はない。
母も、玄関先まで出てきただけだった。
「桜庭家の名を汚さぬように」
「はい」
「戻ってきてはいけませんよ」
皐月は一瞬、母の顔を見た。
けれど母は、すぐに目を逸らした。
「……戻りません」
そう答えた。
馬車に乗り込む。
車輪が動き始める。
桜庭家の屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。
皐月は窓から外を見つめた。
十九年間暮らした家。
生まれ育った場所。
なのに、不思議と寂しくなかった。
帰る場所がなくなるのではない。
きっと――。
最初から、自分の居場所などなかったのだ。
馬車は東京の街を進んでいく。
洋館。
商店。
人力車。
新聞売りの少年。
新しい時代の景色が、窓の外を流れていく。
皐月は膝の上で手を握った。
今日から、自分は白鷺幸雄の妻になる。
幸せになれるとは思っていない。
愛されるとも思っていない。
ただ、与えられた役目を果たせばいい。
そうすれば、誰にも迷惑をかけない。
そう思っていた。
そのとき――。
馬車が大きく揺れた。
「きゃっ……!」
身体が傾く。
皐月は咄嗟に窓枠へ手を伸ばした。
指先が、木枠に触れる。
――瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
『……逃げろ』
「……え?」
知らない男の声。
次の瞬間。
暗闇。
誰かの荒い息遣い。
金属がぶつかる音。
そして――。
『この女には、絶対に知られてはならない』
「っ……!」
皐月は慌てて手を離した。
胸が激しく鳴っている。
「皐月様、大丈夫ですか!」
御者の声がする。
「……はい」
返事をしながら、皐月は自分の指先を見つめた。
震えている。
けれど、恐怖だけではなかった。
何かが。
自分の中で目を覚ましたような感覚。
今まで、一度もなかった。
何かに触れて。
過去の声を聞いたことなど。
皐月は知らなかった。
自分に何が起きたのかも。
今聞いた声が誰のものなのかも。
そして――。
これから嫁ぐ白鷺家に、自分が知らない秘密が眠っていることも。
ただ一つだけ。
皐月は、このとき初めて思った。
――もしかしたら。
自分の人生は、自分が思っているほど決められたものではないのかもしれない。
けれど、その小さな疑問こそが。
誰かに決められた人生を歩いてきた少女が、自分自身の人生を選び取っていく――。
その最初の一歩だった。




