第10話 妻ではなくなる日
――離縁。
幸雄との結婚を終わらせる。
その言葉を思い浮かべるたび、胸の奥がざわついた。
悲しい。
そう思うべきなのだろう。
夫と別れるのだから。
けれど。
なぜか、それだけではなかった。
「……私は」
皐月は胸元で手を握った。
「本当に、悲しいの?」
自分に問いかける。
しばらく考えてみた。
けれど、幸雄と別れることを想像しても、涙は出てこなかった。
浮かんできたのは、別のことだった。
――自由になったら。
どこへ行こう。
何をしよう。
そんな考えだった。
それに気づいて、皐月は驚いた。
「……私、こんなことを考えていたのね」
以前の自分なら、考えもしなかった。
妻であること。
白鷺家に仕えること。
それが人生のすべてだと思っていたから。
けれど。
蔵之介に言われた言葉が、心に残っている。
――人生は、まだ長いですから。
その言葉が、今の皐月には小さな灯りのように思えた。
◇
朝食の時間。
皐月が母屋へ入ると、百合子がすでに席についていた。
「遅いわね」
「申し訳ありません」
「……また謝るのね」
百合子は不機嫌そうに言った。
皐月は何も答えなかった。
以前なら、慌てて頭を下げていただろう。
けれど今は。
必要以上に自分を責めることを、少しずつやめようと思っていた。
「そういえば」
百合子が箸を置いた。
「幸雄さんから何か聞いた?」
皐月の手が止まる。
「……何をでしょう?」
「昨日、二人で話していたでしょう」
「はい」
「離縁の話」
皐月は息を呑んだ。
やはり、幸雄は百合子にも話していたのだ。
「……はい」
皐月が小さく答えると、百合子は口元を緩めた。
「そう」
それだけだった。
けれど、その表情には隠しきれない安堵があった。
「あなたも、そのほうがいいでしょう?」
「……分かりません」
「分からない?」
「私は、まだ何も決めていません」
百合子の眉が動いた。
「幸雄が言ったのよ。離縁を考えているって」
「はい」
「なら、素直に受ければいいじゃない」
「……」
皐月は俯いた。
素直に受ける。
その言葉を聞いて、胸が少し痛んだ。
まるで、自分が白鷺家に必要とされていないことを、改めて突きつけられたようだった。
だが。
その痛みは、以前とは違っていた。
悲しい。
でも、それだけだった。
「私は、少し考えたいと思います」
皐月がそう言うと、百合子は目を見開いた。
「考える?」
「はい」
「何を?」
「これからのことを」
百合子は、しばらく皐月を見つめた。
「……随分、変わったわね」
「え?」
「前は、何を言っても謝っていたのに」
皐月は答えなかった。
自分でも、その変化に気づいている。
誰かに言われたから変わったわけではない。ただ。
自分の中に、少しずつ「自分」が戻ってきている気がする。
◇
その日の昼過ぎ、幸雄は店の帳場にいた。
帳簿をめくりながら、落ち着かない様子で指を叩いている。
「幸雄さん」
百合子が声をかけた。
「なんだ」
「昨日の話だけど」
「ああ」
「本当に離縁するの?」
「するつもりだ」
幸雄は即答した。
「でも、皐月さんはまだ返事をしていないのでしょう?」
「時間の問題だ」
「どうして、そんなに急ぐの?」
幸雄の手が止まった。
「……別に」
「何か理由があるんじゃないの?」
「ない」
幸雄は目を逸らした。
だが、百合子はじっと見つめている。
「金庫のこと?」
「……!」
幸雄の顔色が変わった。
「声が大きい」
「やっぱりそうなのね」
百合子が声を落とす。
「皐月さんが知っているかもしれないから?」
「分からない」
「でも、怖いんでしょう?」
「……あの女は、何か知っている」
幸雄は苛立ったように髪をかいた。
「俺が金を取ったことを、知っているような目をするんだ」
「証拠はないのでしょう?」
「ない」
「なら、放っておけばいいじゃない」
「嫌なんだ」
幸雄の声が低くなる。
「あの目で見られるのが」
百合子は黙った。
「だから、早く終わらせたい」
「……離縁してしまえば、安心できる?」
「少なくとも、あの女が白鷺家の人間でなくなればな」
その言葉を。
廊下の向こうで、皐月が聞いていた。
◇
皐月は、届け物をするために帳場へ来ていた。
偶然だった。けれど、聞いてしまった。
――あの女が白鷺家の人間でなくなれば。
胸が、ずきりと痛んだ。
皐月は足音を立てないよう、その場を離れた。
廊下を歩く。
一歩。
また一歩。
けれど、胸の中には別の疑問が浮かんでいた。
――どうして、幸雄さんはそこまで離縁を急ぐの?
そして。
――金庫のことを、そんなに恐れているの?
皐月は立ち止まった。
自分が知っていること。
幸雄が金庫から金を持ち出していたこと。
それを幸雄は、誰にも知られていないと思っている。
だからこそ、皐月を恐れている。
「……そういうことなのね」
小さく呟いた。そのとき。背後から声がした。
「皐月さん」
「……!」
振り返る。蔵之介だった。
「こんなところで、どうしました?」
「蔵之介さん……」
皐月は一瞬、何も言えなかった。
けれど。
蔵之介の顔を見ると、胸に溜まっていたものが少しだけ緩んだ。
「……昨日のこと」
「はい」
「幸雄さんから、離縁を言われました」
蔵之介の表情が変わる。
「そうですか」
「でも」
皐月は続けた。
「私は、まだ決めていません」
「……」
「怖いんです」
初めて、素直に言った。
「これから一人になることが」
蔵之介は黙って聞いている。
「でも……」
皐月は胸元に手を置いた。
「少しだけ、楽しみでもあるんです」
「楽しみ?」
「自分で、これからを決められるかもしれないから」
蔵之介は、しばらく皐月を見つめていた。
そして。
「それなら」
穏やかに言った。
「怖いだけではないのでしょう」
「……はい」
「だったら、急いで答えを出す必要はありません」
「でも、幸雄さんは急いでいるようです」
「それならなおさらです」
蔵之介は皐月を見る。
「あなたの人生なのですから」
「……」
「兄さんが急いでいるからといって、あなたまで急ぐ必要はありません」
皐月の胸に、その言葉が染みていく。
「ありがとうございます」
「それと」
「はい?」
「もし本当に離縁することになったら」
蔵之介は少しだけ言葉を選んだ。
「あなたには、行く場所があります」
「……え?」
「私が横浜へ行くとき、あなたも」
皐月は目を見開いた。
「一緒に来るという意味ではありません」
「……」
「ただ、あなたが望むなら、仕事を探す手伝いくらいはできます」
皐月の目が潤んだ。
「私にも……仕事ができますか?」
「できます」
迷いのない返事だった。
「あなたは数字に強い」
「でも……」
「それに、人の気持ちを考えられる」
「そんな……」
「私は、そう思っています」
皐月は唇を噛んだ。
涙がこぼれそうになる。
誰かに、自分の価値を認めてもらったのは、いつ以来だろう。
「……私」
皐月は顔を上げた。
「少し、考えてみます」
「ええ」
「自分が何をしたいのか」
蔵之介は微笑んだ。
「それが一番です」
◇
その夜。
皐月は自分の部屋で、小さな紙を一枚取り出した。
筆を持つ。
そして、初めて自分の意思で文字を書いた。
――離縁したら、どうしたいか。
一つ目。
自分で働いてみたい。
二つ目。
誰かに怒鳴られない場所で暮らしたい。
三つ目。
好きな歌を、好きなだけ歌いたい。
そこまで書いて、皐月は小さく笑った。
「……子供みたい」
けれど、その紙を捨てる気にはなれなかった。
四つ目を書こうとして、筆が止まる。
少し考えてから、ゆっくりと文字を綴った。
――自分を、嫌いにならないで生きたい。
書き終えた瞬間、皐月の目から、一粒の涙が落ちた。
悲しい涙なのか。
嬉しい涙なのか。
自分でも分からなかった。
ただ、今までの人生で一度も書いたことのない言葉だった。
その夜。
皐月は初めて、「妻ではなくなった後の自分」を想像した。
そして、その未来は、思っていたほど暗くなかった。




