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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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26/27

第26話 私が帰る場所

 

 東京から横浜へ向かう汽車の中。

 皐月は、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。

 田畑。

 町並み。

 遠くに見える山々。

 つい先ほどまで、自分は父親の屋敷にいた。

 幼い頃から、何度も戻れと言われてきた場所。

 けれど。

 もう、あそこへ戻ることはない。

「……寒くありませんか?」

 隣に座る蔵之介が尋ねた。

「大丈夫です」

 そう答えたものの、皐月の手はまだ少し震えていた。

 それに気づいたのか、蔵之介は何も言わず、自分の外套を皐月の肩へ掛けた。

「蔵之介さん……」

「無理をしないでください」

「でも……」

「今は、何も考えなくていい」

 静かな声だった。

 皐月は外套の端を握った。

 ほんのりと、蔵之介の体温が残っている。

 その温かさに触れた瞬間。

 胸の奥に張り詰めていたものが、少しずつほどけていく気がした。

「……怖かったです」

 皐月が小さく呟く。

 蔵之介は何も言わず、こちらを見る。

「父に会ったとき……また、昔の自分に戻ってしまうような気がしました」

 何を言われても逆らえなかった自分。

 自分の気持ちより、家の都合を優先していた自分。

 幸雄との結婚も。

 白鷺家での生活も。

 何もかも、自分では決められないと思っていた。

「でも……」

 皐月は自分の手を見る。

「もう、戻りたくありません」

「……ええ」

 蔵之介は静かに頷いた。

「戻らなくていい」

 その一言に、皐月の目が潤んだ。

「蔵之介さんは……どうして、あそこまで来てくれたんですか?」

「あなたを迎えに行くと決めたからです」

「それだけですか?」

「それ以上、必要ですか?」

 皐月は思わず笑った。

「……少しだけ」

「では」

 蔵之介は少し考えるように視線を落とした。

「あなたがいないと、横浜の事務所が静かすぎるので」

「それは理由になっていません」

「そうですか?」

「そうです」

 皐月は笑った。

 けれど。

 笑いながら、胸の奥が温かくなっていく。

 この人はいつもそうだ。

 大切なことほど、簡単には言わない。

 それでも。

 行動が、言葉よりも雄弁だった。

 汽車が大きく揺れた。

 皐月の身体が傾く。

 その瞬間、蔵之介の手が伸びてきた。

「危ない」

 皐月の肩を支える。

 距離が近くなった。

 目が合う。

 どちらも、すぐには離れなかった。

「……ありがとうございます」

 皐月が小さく言う。

「どういたしまして」

 蔵之介の手が離れる。

 そのことが、なぜか少し寂しかった。

 皐月は窓の外へ顔を向けた。

 耳が熱い。

 ――私は。

 いつから、この人の隣にいることを心地よいと思うようになったのだろう。

 答えは、もう分かっている気がした。

 けれど。

 今はまだ、その言葉にする勇気がなかった。

 ◇

 横浜へ戻ったのは、夕方だった。

 港から聞こえてくる汽笛。

 行き交う人々。

 異国の言葉。

 皐月にとって、すっかり見慣れた街の景色だった。

「……帰ってきましたね」

 汽車を降りると、皐月が呟いた。

 蔵之介が隣に立つ。

「ええ」

「不思議です」

「何がですか?」

 皐月は少し考えてから答えた。

「ここを、帰る場所だと思っている自分が」

 以前なら。

 帰る場所とは、桜庭家のことだった。

 どんなに苦しくても。

 どんなに嫌でも。

 生まれた家なのだから、戻らなければならないと思っていた。

 けれど今は違う。

 自分が安心して息をできる場所。

 自分の気持ちを否定されない場所。

 そして。

 自分自身で、生き方を決められる場所。

 それが、横浜だった。

「蔵之介さん」

「はい」

「私……ここで暮らしたいです」

 蔵之介は皐月を見つめた。

「これからも?」

「はい」

 皐月は、今度は迷わなかった。

「私、自分で決めました」

 その言葉を口にすると、胸の奥がすっと軽くなった。

 蔵之介はしばらく黙っていた。

 そして。

「……分かりました」

「それだけですか?」

「では、何と言えば?」

「もう少し……何か」

 皐月が拗ねたように言う。

 すると蔵之介の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

「歓迎します」

「……はい」

「これからも、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 皐月は笑った。

 そのとき。

 ふと、手元の鞄へ目を落とした。

 そこには、あの日、攫われたときに落としたエアメールの一枚が入っている。

 皐月は封筒を指先で撫でた。

 残響視。

 過去の出来事を映し出す力。

 父は、それを人の秘密を暴くために使おうとした。

 けれど。

 皐月はもう決めていた。

 この力を、誰かの欲望のためには使わない。

 必要なとき。

 誰かを守るために。

 そして、自分自身が選んだ道を歩くために。

 それだけでいい。

「……残響視も」

 皐月が呟いた。

「これからは、私が使い方を決めます」

 蔵之介は頷いた。

「あなたの力ですから」

 その言葉が、胸に響いた。

 父にも。

 家にも。

 誰にも。

 自分の力を決められない。

 自分の人生も。

 自分の未来も。

 自分で選んでいい。

 皐月は空を見上げた。

 夕暮れの港町。

 赤く染まった空の向こうに、明日がある。

「帰りましょう」

 そう言って、皐月は歩き出した。

 蔵之介が隣を歩く。

 二人の歩幅は、いつの間にか同じになっていた。

 もう、誰かに連れ戻されるためではない。

 自分が帰りたいと思う場所へ。

 自分が生きたいと思う未来へ。

 皐月は、自分の足で歩いていく。

 その隣には。

 蔵之介がいる。

 そして。

 この先の人生は――

 誰かに決められたものではない。

 皐月自身が、選んでいくのだ。

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