↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/27

第27話 これからの人生へ

 横浜に来てから、半年が過ぎた。

 港には今日も、異国の船が停まっている。

 通りには外国人の姿も多い。

 聞き慣れない言葉が飛び交い、荷馬車が石畳の上を走っていく。

 そんな街の一角に、小さな看板を掲げた事務所がある。


 ――白鷺翻訳事務所。


 その窓辺で、皐月は一枚の書類を読み終えた。

「……こちらで大丈夫です」

「ありがとうございます、桜庭さん」

 依頼人の男性が頭を下げる。

 皐月も笑って頭を下げた。

 以前の自分なら。

 人前でこんなふうに話すことさえ、緊張していたかもしれない。

 けれど、今は違う。

 自分で考え。

 自分で決め。

 自分の言葉で伝える。

 そんな小さなことが、少しずつできるようになっていた。


「皐月さん」

 奥の机から声がした。

「はい?」

「休憩してください」

 蔵之介が眼鏡を外しながら、こちらを見る。

「まだ仕事が残っています」

「だからです」

「でも……」

「倒れたら困ります」

 相変わらず、言い方は淡々としている。

 けれど、皐月には分かっていた。

 この人が、自分のことを心配しているのだということが。

 皐月は思わず笑った。

「また、それを言うんですね」

「何度でも言いますよ」

「……半年経っても、変わりませんね」

「変わる必要がありますか?」

「いいえ」

 皐月は小さく首を振った。

「ありません」

 以前にも、同じ言葉を聞いた。

 あの頃は、その言葉がただ嬉しかった。

 今は。

 その言葉の中にある優しさが、もっと深く分かる。

 蔵之介は、いつも皐月の意思を尊重してくれた。

 無理に手を引くこともしない。

 代わりに決めることもしない。

 ただ、皐月が迷っているときには、いつもそばにいてくれた。

 そして、皐月が一歩踏み出したときには。

 誰よりも嬉しそうに笑ってくれた。


「では、お茶にしましょうか」

「ええ」

 皐月が立ち上がる。

 事務所の小さな台所へ向かうと、窓から港が見えた。

 青い海。

 白い雲。

 遠くで汽笛が鳴る。

 皐月は湯を沸かしながら、ふと自分の右手を見た。

 この手には。

 不思議な力がある。

 残響視。

 物や人に触れることで、そこに残された過去の断片を見る力。

 かつて父は、その力を欲しがった。

 人の秘密を知るため。

 自分たちの都合のため。

 けれど。

 もう、桜庭家にその力を利用させるつもりはない。

 皐月は、ゆっくりと手を握った。

 この力をどう使うのか。

 それを決めるのは、自分だ。

 誰かを傷つけるためではなく。

 誰かの過去を暴くためでもない。

 必要なときに。

 目の前にいる人を助けるために使えばいい。

 それで十分だった。


「皐月さん」

「はい?」

「お茶、沸いていますよ」

「まあ」

 皐月は慌てて火を止めた。

 蔵之介が小さく笑う。

「何を考えていたんですか?」

「秘密です」

「珍しいですね」

「蔵之介さんだって、秘密は多いじゃありませんか」

「そうですか?」

「はい」

 皐月は笑った。


 その笑顔を見て、蔵之介は少しだけ目を細める。

「……変わりましたね」

「私が?」

「ええ」

 皐月は考える。

 変わった。

 確かに。

 以前の自分なら。

 何かを言われれば、すぐに自分が悪いと思った。

 嫌なことをされても我慢した。

 自分より家を優先した。

 誰かに必要とされることだけを、自分の価値だと思っていた。

 けれど、今は違う。

 自分が何をしたいのか。

 どこで生きたいのか。

 誰と一緒にいたいのか。

 それを、自分で考えられる。

「……変わったと思います」

 皐月は静かに答えた。

「でも」

 蔵之介を見る。

「変わることができたのは、蔵之介さんがいてくれたからです」

「私は何もしていませんよ」

「そんなことありません」

 皐月は首を横に振った。

「蔵之介さんは、私に決めさせてくれました」

「……」

「横浜へ行くことも。ここで暮らすことも。残響視をどうするかも」

 皐月は微笑んだ。

「私が、自分で決めるまで待ってくれました」

 蔵之介は、しばらく黙っていた。

 そして、静かに言った。

「これからも、そうします」

「……これからも?」

「ええ」

 蔵之介は眼鏡を机の上に置いた。

「あなたの人生ですから」

 その言葉に。

 皐月の胸が、温かくなる。

 けれど。

 それだけではなかった。

 半年間、蔵之介と過ごしてきた。

 仕事をして。

 食事をして。

 くだらない話をして。

 時には喧嘩をして。

 仲直りをして。

 朝になれば「おはよう」と言い、夜になれば「おやすみ」と言う。

 そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていた。

 蔵之介がいない食卓を想像すると、少し寂しい。

 帰ってきたとき、その声が聞こえなければ落ち着かない。

 嬉しいことがあったとき、最初に伝えたいと思う。

 悲しいことがあったとき、一番そばにいてほしいと思う。

 それが何を意味するのか。

 もう、皐月には分かっていた。

 これは、恩ではない。

 感謝だけでもない。

 まして、助けてもらったから縋っているのでもない。


 ――私は、この人が好きなのだ。


 自分の意思で。

 自分の心で。

 そう思えることが、皐月には嬉しかった。

「蔵之介さん」

「はい」

 皐月は少しだけ迷った。

 けれど。

 もう、逃げる必要はない。

 誰かの顔色を窺って、言葉を飲み込む必要もない。

 だから。

 自分の気持ちを、自分の言葉で伝えたかった。

「私……蔵之介さんのことが好きです」

 蔵之介の目が、わずかに見開かれた。

 いつも冷静なその表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。

 それを見て、皐月の胸が高鳴った。

「……驚きました」

「すみません……」

「謝らないでください」

 蔵之介が立ち上がる。

 ゆっくりと、皐月の前まで歩いてくる。

「謝ることではありません」

 その声は、いつもより少し低かった。

「私も」

 蔵之介は一度、言葉を止めた。

「……あなたが好きです」

「本当ですか?」

「ええ」

 そして、皐月の手を取る。

「正直に言えば――あなたが白鷺屋の母屋に戻るのが、ずっと嫌でした」

「……え?」

「あなたが私の隣からいなくなることが」

 蔵之介は少し困ったように笑った。

「ですが、あなたの人生を私が決めることはできませんから」

 その言葉に、皐月の胸が熱くなる。

 この人は、ずっと自分の気持ちを隠していたのだ。


「だから、私はあなたの隣にいたい」

 蔵之介が、そっと手を差し出した。

 皐月は、その手を見る。

 以前なら。

 誰かに差し出された手を、疑うことなどできなかった。

 受け取らなければならない。

 そう思っていた。

 けれど今は違う。

 自分で選べる。

 この手を取るのか。

 取らないのか。

 皐月は、自分の意思で手を伸ばした。

 そして。

 蔵之介の手を握った。

 温かかった。

「……これからも、あなたの隣にいてもいいですか?」

「こちらからお願いしたいくらいです」

「本当ですか?」

「嘘をつく必要がありますか?」

「ありませんけど……」

「では、本当です」


 皐月は笑った。

 蔵之介も笑った。

 握った手は、離れなかった。

 窓の外では、港へ向かう船がゆっくりと進んでいる。

 新しい場所へ。

 新しい人生へ。

 船は、誰かに押されるのではなく、自らの進む先を選ぶように海を渡っていく。

 皐月も同じだった。

 桜庭家へ戻ることはない。

 白鷺家へ戻ることもない。


 幸雄との夫婦関係を、もう元に戻そうとは思わない。

 一度割れたものを、無理に繋ぎ合わせる必要なんてない。

 私はもう、壊れたものを直すために生きるのではなく――

 自分が大切にしたいものを、自分の手で選んでいく。

 新しい器を選ぶように。

 そして。

 その隣にいてほしい人も。

 自分で選んでいい。


「皐月さん」

「はい?」

「明日、少し時間をもらえますか?」

「お仕事ですか?」

「いいえ」

 蔵之介が、握った手にほんの少し力を込めた。

「あなたと、行きたい場所があります」

「どこですか?」

「着いてからのお楽しみです」

 皐月は目を丸くした。

「珍しいですね。蔵之介さんがそんなことを言うなんて」

「私にも、それくらいのことはできますよ」

「ふふっ」

 皐月は笑った。

 潮の香りが、窓からふわりと入ってくる。

 青い海の向こうには、まだ見たことのない場所がある。

 これから先、何が起こるかは分からない。


 残響視が、これからどんな過去を見せるのかは分からない。

 けれど。

 もう、過去に人生を決めてもらうつもりはなかった。

 過去を見る力があっても、未来を決めるのは自分だ。

 それでいい。


 皐月は、隣にいる蔵之介を見た。

 そして、握られた手を見つめる。

 この人となら。

 きっと、どんな未来でも歩いていける。

「蔵之介さん」

「はい」

「行きましょう」

「どこへ?」

 皐月は笑った。

「これからの人生へ」

 蔵之介も、静かに笑う。

「ええ。一緒に行きましょう」

 二人は並んで歩き出した。

 過去に戻るためではない。

 誰かに決められた場所へ行くためでもない。

 自分たちが選んだ未来へ。

 一歩ずつ。

 ゆっくりと。

 握った手を離さずに。

 ――皐月の新しい人生は、ここから始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
最後まで読んでようやく幸せが訪れた。。。 ほっとした。。 そして、ほっとした自分に「そこまでのめりこんで読んでいた」ということに気が付いた。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。