第25話 私はもう、以前の私ではありません
汽車の揺れが、いつまでも身体に残っていた。
皐月は小さな部屋の中で、両手を膝の上に置いていた。
窓には厚いカーテンが引かれている。
外の景色は見えない。
どこへ連れてこられたのかも分からなかった。
ただ。
ここが桜庭家の息がかかった場所であることだけは、分かっていた。
馬車に押し込まれたとき。
男の一人が、そう呟いていた。
――伯爵様がお待ちだ。
父。
桜庭伯爵。
その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が重くなる。
幼いころから。
皐月にとって父親とは、遠い存在だった。
褒められた記憶はない。
話しかけても、目を合わせてもらえない。
朔弥には期待するのに。
自分には、いつも冷たい視線だけを向けていた。
そんな父が。
今になって、自分を必要としている。
その理由は分かっている。
残響視。
この力だ。
障子の向こうから、足音が近づいてきた。
やがて。
すっと襖が開く。
「久しぶりだな、皐月」
桜庭伯爵だった。
皐月は立ち上がらなかった。
「……お父様」
伯爵はゆっくり部屋へ入ってくる。
以前なら。
その姿を見るだけで、身体が強張っていた。
けれど。
今は違う。
怖くないわけではない。
それでも。
もう、ただ黙って従うつもりはなかった。
「ずいぶん変わったな」
伯爵が皐月を見つめる。
「白鷺家を出て、横浜へ行ったそうだな」
「はい」
「男と一緒に」
その言葉に、皐月の眉がわずかに動いた。
「蔵之介さんは、私の大切な人です」
伯爵の目が細くなる。
「……大切な人?」
「はい」
「お前は、そんなことを口にする娘ではなかった」
皐月は静かに父を見た。
「以前の私は、何も言えない娘でした」
「何?」
「何を言っても無駄だと思っていたからです」
伯爵の表情が険しくなる。
「それがどうした」
「ですが」
皐月はゆっくり立ち上がった。
「私はもう、以前の私ではありません」
「……」
「自分がどこで生きるのか。誰と生きるのか。何を大切にするのか」
一つずつ、言葉にする。
「それを、自分で決めることにしました」
伯爵が鼻で笑った。
「生意気になったものだ」
「そうかもしれません」
皐月は目を逸らさなかった。
「ですが、お父様の言うことだからという理由だけで、人を傷つけることはできません」
「人を傷つける?」
「残響視のことです」
伯爵の顔から笑みが消えた。
「やはり、気づいていたか」
「はい」
「ならば話は早い」
伯爵は懐から一枚の紙を取り出した。
「お前の力があれば、これまで誰にも知られていなかった情報を手に入れられる」
「……」
「商人の秘密も、政治家の弱みも、交渉相手の過去もだ」
皐月は黙って聞いていた。
「それを使えば、桜庭家はさらに大きくなれる」
「そのために、私を連れ戻したのですか」
「当然だ」
即答だった。
「お前は桜庭家の娘だ」
その言葉を聞いた瞬間。
皐月の中で、何かが冷たく沈んだ。
「……お父様」
「なんだ」
「私は、桜庭家の道具ではありません」
伯爵の顔が歪んだ。
「誰がそんなことを言った」
「お父様が、今」
「何だと?」
「私の力の話しかしていません」
皐月の声は震えていなかった。
「私が何を望んでいるのか。一度も聞こうとしなかったではありませんか」
「娘の分際で――」
「私は」
皐月は言葉を重ねる。
「もう、誰かに人生を決められるのは嫌なんです」
伯爵が机を叩いた。
「お前はそんなことを言う娘ではなかった!」
部屋に怒声が響く。
けれど。
皐月は逃げなかった。
「……はい」
一度、静かに頷く。
「そうですね」
そして。
父親をまっすぐ見つめた。
「私はもう、以前の私ではありません!」
その声が、部屋の中に響いた。
伯爵は言葉を失った。
皐月自身も驚いていた。
こんなふうに父親へ言い返したことなど、一度もなかった。
けれど。
怖くなかった。
胸の奥には、不思議なくらい静かなものがあった。
「残響視を使って、誰かの秘密を暴くことはしません」
「……ならば、無理にでも使わせる」
「できません」
「できるさ」
伯爵が一歩近づく。
「お前には、その力がある」
「力があるからこそ」
皐月は自分の手を見る。
「使い方は、自分で決めます」
「……愚かな娘だ」
「そうかもしれません」
それでも。
皐月は顔を上げた。
「でも、私は自分で決めたことを後悔しません」
その瞬間だった。
廊下の向こうから、何かが落ちる音がした。
ガタン。
伯爵が振り返る。
「何だ?」
皐月も耳を澄ませる。
足音。
一人ではない。
複数の人間が走っている。
そして。
聞き覚えのある声がした。
「皐月さん!」
皐月の目が見開かれた。
「……蔵之介さん?」
伯爵の顔色が変わる。
「なぜ、ここが……」
廊下から激しい物音が響いた。
「皐月さん!」
今度は、はっきり聞こえた。
皐月の胸が大きく鳴る。
会いたかった。
そう思った瞬間。
胸の奥が熱くなった。
「蔵之介さん……」
襖の外で、男たちの怒鳴り声が響く。
「止まれ!」
「そこをどけ!」
続いて。
ドンッ!
大きな音とともに、襖が開いた。
そこに。
息を切らした蔵之介が立っていた。
憲兵隊の姿もある。
「皐月さん!」
「蔵之介さん……!」
二人の視線が重なる。
ほんの一瞬。
周囲のすべてが消えたように感じた。
蔵之介が皐月へ近づこうとする。
しかし、その前に桜庭伯爵が立ちはだかった。
「白鷺蔵之介」
「桜庭伯爵」
二人が睨み合う。
「娘は返していただきます」
「これは桜庭家の問題だ」
「違います」
蔵之介の声は静かだった。
「皐月さんは、あなたの所有物ではない」
伯爵の顔が険しくなる。
「黙れ」
「嫌です」
蔵之介は一歩前へ出た。
「皐月さんが自分の意思で帰ると言うまで、私は帰りません」
皐月の胸が震えた。
以前なら。
誰かが自分のために争うことさえ、怖かった。
けれど今は。
自分も、この人の隣へ行きたい。
そう思った。
そのとき。
皐月の指先が、机の上に置かれた古い鍵へ触れた。
ぞくり。
残響視が走る。
見えた。
この部屋を出た男。
廊下。
階段。
裏口。
そして。
庭へ続く小さな門。
ほんの数日前。
誰かがその鍵を使っていた。
「蔵之介さん」
「はい」
「左の廊下です」
蔵之介が皐月を見る。
「左?」
「その先に、裏口があります」
「……分かりました」
皐月は父親を見る。
「お父様」
「……」
「私は、もう帰ります」
「皐月!」
伯爵が叫ぶ。
けれど。
皐月はもう振り返らなかった。
蔵之介が差し出した手を見る。
一瞬だけ迷って。
その手を取った。
温かかった。
「行きましょう」
「はい」
二人は廊下を走り出した。
背後から、伯爵の怒声が響く。
「皐月! お前は桜庭家の娘だぞ!」
だが、憲兵隊が桜庭伯爵とその側近を取り囲む。
「伯爵お静かに、お話を伺わせていただきたい」
「くっ......!」
皐月は足を止めなかった。
もう。
その言葉に縛られることはない。
自分の人生を決めるのは。
父でも。
家でも。
誰でもない。
――私自身だ。
蔵之介の手を握りながら。
皐月は初めて、自分の意思で家の外へ向かって走った。




