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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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第24話 消えた皐月

 

 あの晩餐会から、数日が経った。

 横浜の翻訳事務所では、いつもと変わらない日々が続いていた。

 ……そう見えていた。

 けれど。

 少しずつ、妙なことが起こり始めていた。

 事務所に、無言電話が掛かってくるようになったのだ。

「もしもし?」

 皐月が受話器を取る。

 返事はない。

「……もしもし?」

 耳を澄ませても、聞こえるのは微かな呼吸音だけ。

 やがて。

 ぷつり。

 電話が切れる。

「またですか?」

 蔵之介が尋ねる。

「はい……」

 皐月は受話器を戻した。

「ここ数日、何度もです」

 蔵之介は黙って電話機を見つめた。

 そして。

「先日の件もあります」

「……はい」

 皐月は、兄から聞いた言葉を思い出していた。

 父は、自分を探している。

 そして。

 自分の残響視を利用しようとしている。


「蔵之介さん」

「はい」

「実は……」


 皐月は、これまで話せずにいたことを打ち明けた。

 自分に残響視という人の過去が見える異能があるということ。

 時には、相手の心が聞こえるということ。

 桜庭伯爵が残響視を利用しようとしていること。


 蔵之介は、驚きながらも黙って最後まで聞いていた。

 異能という言葉に戸惑いの表情も見せた。

 やがて。

「それは……」

 静かに息を吐く。

「注意しなければなりませんね」

「はい」

「しばらく、一人で出歩かないほうがいいでしょう」

「分かりました」

 皐月は頷いた。


 けれど、その翌朝。


「では、郵便局へ行ってきますね」

「皐月さん」

 蔵之介が顔を上げた。

「……気をつけてください」

「はい」

 皐月は笑った。

「すぐそこですから」

 それは、いつもの道だった。

 事務所から大通りへ出て。

 人通りの多い煉瓦の舗道を歩き。

 郵便局へ向かう。

 何度も歩いた、通い慣れた道。

 だからこそ。

 皐月は油断していた。

 鞄の中には、蔵之介から預かったエアメール。

 海外へ送る大切な書類だった。

 皐月はそれを確認しながら歩いていた。

「これを出したら……」

 午後には事務所へ戻れる。

 そう思っていた。

 そのとき。

 背後から、馬車の音が聞こえた。

 カツン。

 カツン。

 石畳を蹄が叩く音。

 皐月は振り返らなかった。

 横浜では馬車など珍しくない。

 だから。

 その馬車が、自分のすぐ横で止まったことにも。

 最初は気づかなかった。

 キィッ――。

 黒い馬車の扉が開く。

「え?」

 皐月が振り向いた。

 その瞬間。

 中から、黒ずくめの男が飛び出してきた。

「きゃ――!」

 皐月が声を上げる。

 もう一人。

 さらに一人。

 男たちが一斉に皐月へ駆け寄る。

「離して!」

 皐月は必死に抵抗した。

 けれど。

 あまりにも突然の出来事だった。

 誰かが腕を掴む。

 別の男が口を塞ぐ。

「ん……!」

 鞄が手から滑り落ちた。

 男たちは皐月を黒い馬車へ押し込む。

「助け――」

 声が途切れた。

 扉が閉まる。

 馬車が走り出した。

 すべてが。

 ほんの一瞬だった。

 あとに残されたのは。

 煉瓦の舗道。

 そして。

 皐月の鞄。

 中から飛び出したエアメールが、風に煽られて散らばっていた。

 ◇

「何だ、今の騒ぎは!」

 通りの人々が集まり始めた。

 その中を、息を切らした蔵之介が走ってくる。

「皐月さん!」

 けれど。

 そこに、皐月の姿はなかった。

 蔵之介の足が止まる。

 視線が、地面へ落ちる。

 見覚えのある鞄。

 散乱したエアメール。

 蔵之介の顔から血の気が引いた。

「……皐月さん?」

 返事はない。

 蔵之介は、すぐに一枚の封筒を拾い上げた。

 そして。

 周囲を見渡す。

「馬車は?」

 通行人の一人が震える声で答えた。

「黒い馬車でした……」

「どちらへ?」

「……駅の方へ走っていきました」

 蔵之介は、拳を握りしめた。

 無言電話。

 桜庭家の企み。

 そして。

 今日の襲撃。

 すべてが一本の線で繋がった。

「……桜庭伯爵か?」

 低い声が漏れる。

 蔵之介は、散らばったエアメールを急いで拾い集めた。

 そして。

 皐月が最後に歩いていた方向へ目を向ける。

「必ず見つける」

 そう呟くと。

 蔵之介は走り出した。

 向かう先は。

 横浜駅。

 ◇

 横浜駅。

 蔵之介が駅員に駆け寄る。

「先ほど、女性が無理やり汽車へ連れ込まれるような騒ぎはありませんでしたか?」

 駅員は驚いた顔をした。

「女性……?」

「若い女性です。洋装で、肩までの髪をしています」

 駅員は少し考えた。

「……そういえば」

「何か見たのですか?」

「東京方面へ向かう汽車の前で、妙な騒ぎがありました」

 蔵之介の表情が強張る。

「女性が……男たちに囲まれていた」

「その汽車は?」

「もう出ました」

「いつです?」

 駅員が時刻表を見る。

「つい先ほどです」

 蔵之介はホームの向こうを見つめた。

 線路の先。

 汽車が吐き出した煙が、まだ空に残っている。

「……皐月さん」

 胸の奥が締めつけられる。

 けれど。

 立ち止まっている暇はなかった。

 蔵之介は踵を返した。

「追います」

 その目には、いつもの穏やかさがなかった。

 愛する人を奪われた男の、強い決意が宿っていた。

「必ず、取り戻す」

 東京へ向かう汽車。

 その先で。

 皐月を待ち受けているものは――。

 まだ、誰にも分からなかった。

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