第23話 残響視が救った命
その夜。
迎賓館では、国内外の要人を招いた華やかな晩餐会が催されていた。
大広間には、無数の燭台が並び、眩いほどの光が満ちている。
磨き上げられた床。
白いテーブルクロス。
銀の食器。
色とりどりの料理。
外国から訪れた大使館員や外交官たち。
日本の政治家や財界人。
軍服姿の者もいれば、最新の洋装に身を包んだ紳士もいる。
笑い声。
乾杯の音。
異国の言葉。
そのすべてが、ひとつの大きな渦となって広間を包んでいた。
「こちらへどうぞ」
蔵之介は流暢な外国語で客を案内していた。
今夜、蔵之介は通訳として招かれている。
その助手として、皐月も同行していた。
「蔵之介さん、次の方はこちらです」
「ありがとう、皐月さん」
皐月は書類を手に、忙しく動き回る。
以前なら、こんな場所にいるだけで緊張していたことだろう。
けれど今は違う。
蔵之介の隣にいる。
それだけで、不思議と落ち着いていられた。
ただ。
この場所には、別の意味で息苦しさがあった。
「この件がまとまれば、かなりの利益になりますな」
「ですが、あの大臣は信用できませんよ」
「彼の弱みなら、もう掴んであります」
「それなら、次の交渉では――」
すれ違う人々の声。
笑顔で乾杯をしながら、裏では互いを値踏みしている。
誰が味方なのか。
誰が敵なのか。
誰がどんな秘密を握っているのか。
華やかな会場の下には、欲と打算が渦巻いていた。
そして。
皐月の残響視は、そんな人々の声を拾ってしまうまでに進化していた。
すれ違いざまに袖が触れる。
――あの契約は、あいつを失脚させるためだ。
――あの女は利用するだけ利用して捨てればいい。
――金さえ積めば、誰でも動く。
聞きたくなくても、聞こえてしまう。
皐月は次第に顔色を悪くしていった。
「……皐月さん?」
蔵之介が気づく。
「少し……外の空気を吸ってきてもいいでしょうか」
「もちろんです」
蔵之介は心配そうに皐月を見る。
「無理はしないでください」
「はい」
皐月は小さく頷き、広間を出た。
廊下は静かだった。
皐月は壁際の椅子に腰を下ろした。
深く息を吐く。
「……少し、疲れたわ」
こんなにも人がいるのに。
誰もが笑っているのに。
聞こえてくるのは、悪意や欲ばかり。
皐月は目を閉じた。
そのときだった。
近くを通ったホールスタッフのズボンの裾が皐月に触れる。
すると、奇妙な声が聞こえてきた。
――あの異人に、これを食べさせれば。
皐月の目が開く。
声の主を見る。
一人のホールスタッフが、銀の盆を持って歩いていた。
その上には、小さな白い皿が載っている。
皐月の残響視が反応した。
ぞくり、と背筋が冷える。
何かがおかしい。
スタッフが料理を一皿、外国人の大使館員の前へ置いた。
「Please enjoy this dish.」
大使館員は嬉しそうに笑った。
「Oh! コレガ、トウフデスカ!?」
皐月は料理を見る。
白く、つるりとした見た目。
一見すると、豆腐にしか見えない。
けれど。
皐月には、その料理から別の記憶が流れ込んできた。
――落花生。
皐月の目が見開かれる。
大豆ではない。
これは――。
「……ジーマーミ豆腐」
沖縄で食べられている、落花生から作られた豆腐だった。
そして。
皐月の脳裏に、触れてもいないのに断片的な記憶が浮かんだ。
赤い発疹。
呼吸が苦しくなる。
喉が塞がるような感覚。
そして。
その大使館員自身の記憶。
――ピーナッツだけは食べてはいけない。
皐月は立ち上がった。
「それは――」
大使館員が匙を手に取る。
「Wait!」
皐月は駆け寄った。
そして、咄嗟に大使館員の背中へ手を触れた。
その瞬間。
残響視が、はっきりとした映像を見せた。
幼い頃。
菓子を食べた直後、苦しそうに息をしている少年。
周囲の大人たちが慌てている。
そして、医師の声。
――ピーナッツアレルギーです。
皐月は確信した。
この人は。
落花生を食べてはいけない。
「それは食べてはいけません!」
皐月は叫んだ。
大使館員が驚いて振り返る。
「What?」
皐月は皿へ手を伸ばした。
けれど。
間に合わない。
皐月の手が皿に触れた。
ガシャン!
皿が床へ落ちた。
ジーマーミ豆腐が白い床に散らばる。
大使館員が目を丸くする。
「Why did you――」
「ピーナッツです!」
皐月は必死に説明した。
「それは大豆ではありません! 落花生で作られています!」
大使館員の顔から、血の気が引いた。
「……Peanut?」
皐月は頷いた。
「はい!」
大使館員は震える手で胸元を押さえた。
「I……I have a peanut allergy……」
その言葉に。
周囲がざわめいた。
蔵之介が駆けつけてくる。
「皐月さん!」
「蔵之介さん!」
皐月は息を切らしながら叫んだ。
「この方は、落花生が食べられません!」
蔵之介は一瞬で状況を理解した。
大使館員へ流暢な外国語で話しかける。
そして、すぐに医療関係者を呼ぶよう指示を出した。
大使館員は、床に落ちた料理を見つめている。
「……If I had eaten that……」
声が震えていた。
蔵之介が静かに答える。
「Yes. It could have been dangerous.」
大使館員は皐月を見る。
そして。
深く頭を下げた。
「Thank you……」
皐月は戸惑いながら首を横に振った。
「いえ……」
その瞬間。
皐月は、廊下の先に立つホールスタッフを見た。
男は顔を青ざめさせている。
皐月は、さっき聞いた声を思い出した。
――あの異人に、これを食べさせれば。
これは偶然ではない。
皐月の背筋に、再び冷たいものが走った。
誰かが、この人を狙っていた。
誰か、いや......それは父、桜庭伯爵だった。
そして。
自分の残響視が、その命を救った。
蔵之介が皐月の隣に立った。
「大丈夫ですか?」
皐月は頷いた。
けれど、その胸の中には、別の思いが生まれていた。
残響視は。
人の秘密を暴くためだけの力ではない。
使い方次第で。
人を傷つけることもできる。
けれど。
人を救うこともできる。
桜庭家は、この力を権力のために使おうとしている。
皐月は、初めてはっきりと思った。
――私は、そんなことのために、この力を使いたくない。
月明かりの差し込む廊下で。
皐月は、自分の手を見つめた。
今までなら。
残響を見るには、何かに触れなければならなかった。
けれど、今は違った。
触れていないのに。
あの人の中に残っていた、強烈な記憶の断片が見えた。
もしかすると。
残響視そのものが、少しずつ変わっているのかもしれない。
ただし。
見えたのは、その人のすべてではない。
あまりにも強く残された記憶が、一瞬だけこちらへ流れてきただけだった。
皐月は、まだその意味を知らなかった。
そして。
その手を、そっと握りしめた。
自分の力をどう使うのか。
それを決めるのは、桜庭伯爵ではない。
皐月自身なのだ。




