第22話 あなたの声
夜。
縁側から、コオロギの音色が聞こえていた。
涼やかな秋の風が庭を撫でていく。
見上げれば、ぽっかりと夜空に浮かんだ満月。
その月明かりが、庭の草木を淡く照らしていた。
皐月と蔵之介は、並んで縁側に座っていた。
二人の間には、湯気の立つ湯呑みが置かれている。
「今日は、少し冷えますね」
「そうですね」
皐月は湯呑みを両手で包み込んだ。
温かさが、指先から身体へ伝わってくる。
横浜へ来てから、まだそれほど日が経っていない。
けれど。
この暮らしにも、少しずつ慣れてきた。
朝になれば仕事へ行く。
昼には事務所で書類を整理する。
夕方になれば、一緒に帰る。
そして夜には、こうして縁側でお茶を飲む。
それだけの毎日。
けれど。
皐月にとっては、今まで知らなかった穏やかな日々だった。
「そういえば」
皐月は隣の蔵之介を見る。
「兄様をお見送りした時、買ったんです」
「何をですか?」
皐月は小さな包みを開いた。
中から取り出したのは、白い皿。
その上に、丸々とした豆大福が並んでいる。
「豆大福です」
「なるほど」
蔵之介が微笑んだ。
「美味しそうですね」
「横浜駅の近くで見つけたんです。兄様にも食べてもらいたかったんですけど……」
皐月は少し寂しそうに笑った。
「汽車の時間があったので、買って帰りました」
「では、今日は二人でいただきましょう」
「はい」
皐月は嬉しそうに頷いた。
「いただきます」
二人で手を伸ばす。
皐月が豆大福を取ろうとした、その瞬間だった。
蔵之介の指先と、皐月の指先が触れた。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど。
皐月の身体が、ぴくりと震えた。
――皐月さん。
頭の中に、声が響いた。
皐月は息を呑む。
これは。
残響視。
触れた相手の過去が見える。
そう思った。
けれど。
流れ込んできたのは、過去の映像ではなかった。
蔵之介の心。
――今日も、無事に帰ってきてくれてよかった。
皐月の目が見開かれる。
――桜庭家のことは、私が必ず何とかする。
――あなたが怯えなくて済むように。
胸が、どくんと鳴った。
「……」
皐月は動けなかった。
心の声は、止まらない。
――あなたは、もう十分苦しんだ。
――これ以上、誰かに傷つけられる必要なんてない。
――私が守りたい。
その言葉に。
皐月の胸が熱くなった。
蔵之介は、いつも穏やかだった。
何かを強制することもない。
皐月の過去を根掘り葉掘り聞くこともしない。
ただ、必要なときには手を差し伸べてくれる。
それが、なぜなのか。
皐月は今まで、尋ねたことがなかった。
けれど。
今、分かってしまった。
蔵之介は、打算で自分を助けているのではない。
桜庭家の力を利用するためでも。
珍しい能力に興味があるためでもない。
ただ。
自分を心配している。
自分を守りたいと思っている。
それだけだった。
「……蔵之介さん」
思わず名前を呼ぶ。
「はい?」
蔵之介は、いつものように穏やかな顔で皐月を見る。
皐月は何も言えなかった。
さっき聞いた心の声を、本人に伝えることなどできない。
ただ。
頬が熱くなっていく。
「どうしました?」
「いえ……」
皐月は俯いた。
「なんでもありません」
「そうですか?」
「はい」
皐月は豆大福を手に取った。
けれど、胸の鼓動が速すぎて、味がよく分からない。
隣を見る。
月明かりに照らされた蔵之介の横顔。
穏やかな表情。
いつもの声。
いつもの仕草。
それなのに。
今までとは違って見えた。
皐月は胸元に手を当てる。
そこには、まだ熱が残っている。
怖かった残響視。
誰かの秘密を暴いてしまう力。
けれど。
この力がなければ。
今の自分は、蔵之介の優しさの本当の意味を知らなかったかもしれない。
「……ありがとうございます」
「何がですか?」
「……いろいろです」
皐月は小さく笑った。
蔵之介は少し不思議そうな顔をした。
「変な皐月さんですね」
「そうでしょうか」
「ええ」
そう言って、蔵之介も笑う。
コオロギの音色が、静かな夜に響いていた。
皐月は満月を見上げた。
過去は消えない。
桜庭家の企みも、まだ終わっていない。
それでも。
この人の隣なら。
もう少しだけ、前を向いて歩ける気がした。
皐月はそっと微笑んだ。
そして。
今度は自分から、蔵之介の隣へ少しだけ身体を寄せた。




