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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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第21話 一緒に暮らしませんか

 

「絶対に、桜庭家へ戻るな」

 朔弥は、それだけを皐月に告げた。

 それ以上は何も言わなかった。

 横浜駅へ着くと、朔弥は切符を買い、汽車へ乗り込んだ。

「兄様」

 皐月はホームから声をかける。

 朔弥が窓を開けた。

「元気でな、皐月」

「兄様も……」

 それ以上、言葉が続かなかった。

 汽笛が鳴る。

 汽車がゆっくりと動き始めた。

 朔弥は窓から身を乗り出し、皐月を見つめている。

 皐月も手を振った。

 やがて汽車は速度を上げ、朔弥の姿が少しずつ遠ざかっていく。

 最後まで。

 朔弥は振り返っていた。

 皐月は、見えなくなるまでその背中を見送った。

 そして。

 一人になったホームで、ゆっくりと手を下ろす。

 胸の奥に、重いものが沈んでいた。


 父が、自分を探している。

 それだけではない。

 桜庭伯爵は、皐月の残響視を利用しようとしている。

 政治家。

 軍人。

 財界人。

 その人間たちの記憶を読み取り、秘密を握る。


「……そんなことに」


 自分の力が使われる。

 そう考えただけで、背筋に冷たいものが走った。

 残響視。

 人の過去を見る力。

 皐月にとっては、決して望んで得たものではなかった。

 誰かの秘密を暴きたいわけでもない。

 誰かを傷つけたいわけでもない。

 それなのに。

 自分の知らないところで、その力が恐ろしい目的のために利用されようとしている。

 皐月は身震いした。

「怖い……」

 小さく呟く。

 けれど。

 ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 皐月は顔を上げた。

 そして、蔵之介の待つ翻訳事務所へ向かった。

 ◇

 事務所の扉を開ける。

 カラン、とベルが鳴った。

「お帰りなさい」

 いつもの声。

 蔵之介が顔を上げた。

 だが。

 皐月の顔を見るなり、その表情が変わった。

「……どうしました?」

「蔵之介さん」

 皐月は鞄を置いた。

「少し……お話があります」

「分かりました」

 蔵之介はすぐに立ち上がった。

 事務所の奥へ皐月を案内する。

「座ってください」

 皐月は椅子に腰を下ろした。

 けれど、手は震えていた。

 蔵之介はそれに気づいていた。

「何があったのですか?」

 皐月は一度、目を閉じた。

 そして。

 兄から聞いたことを、すべて話した。

 桜庭家が白鷺屋に女中を送り込んでいたこと。

 自分を連れ戻そうとしていること。

 そして。

「父は……」

 皐月の声が震える。

「海外貿易を意のままにしようと計画しています」

 蔵之介は黙って聞いていた。

 驚いている。

 だが、取り乱してはいない。

 皐月はそれが、かえって怖かった。

 蔵之介はしばらく黙っていた。

 そして、皐月の向かいに座る。

「皐月さん」

「はい……」

「あなたは、何も悪くありません」

 皐月が顔を上げる。

「ええ」

 蔵之介は頷いた。

「だからこそ、桜庭家から離れなければならない」

 皐月は黙って彼を見る。

 蔵之介は、少しだけ迷うように視線を落とした。

 そして。

 意を決したように顔を上げる。

「皐月さん」

「はい」

「一緒に暮らしませんか?」

 皐月の目が大きく開いた。

「……え?」

 思わず聞き返す。

 蔵之介は少しだけ耳を赤くしながらも、視線を逸らさなかった。

「今の事務所だけでは、安全とは言えません」

「……」

「桜庭家が本気であなたを探しているのなら、住んでいる場所も知られないようにした方がいい」

 そこまで言ってから。

 蔵之介は、少しだけ言葉を選ぶように続けた。

「それに……」

 皐月は黙って待つ。

「私は、あなたに一人で怯えてほしくありません」

 胸が、どくんと鳴った。

「朝、起きたときに誰かがいる」

「……」

「仕事から戻ったら、『お帰りなさい』と言える」

 蔵之介は微笑んだ。

「そんな暮らしをしてみませんか?」

 皐月は答えられなかった。

 白鷺屋では。

 家に帰っても、安らげなかった。

 桜庭家では。

 帰る場所そのものが、恐ろしかった。

 けれど。

 ここには。

 自分を待ってくれる人がいる。

「……蔵之介さん」

「はい」

「それは……」

 皐月は胸元で手を握った。

「私がいても、迷惑ではないですか?」

 蔵之介は即座に答えた。

「迷惑なら、最初から言いません」

 その言葉に。

 皐月の目から、一粒だけ涙が落ちた。

「……ありがとうございます」

「返事は急がなくていいですよ」

 そう言われて、皐月は首を横に振った。

「いいえ」

 涙を拭う。

 そして。

 今までとは違う、まっすぐな目で蔵之介を見つめた。

「私……一緒に暮らしたいです」

 蔵之介の瞳が、わずかに揺れた。

「……本当に?」

「はい」

 皐月は小さく笑った。

「一人でいるより、ずっと安心します」

 窓の外から、港の汽笛が聞こえた。

 横浜の街は、夕暮れへ向かっている。

 皐月は思った。

 もう逃げるだけではない。

 自分を守るために。

 自分の未来を選ぶために。

 誰と生きるのかも、自分で決めていい。

「では」

 蔵之介が立ち上がる。

「帰りましょう」

「……はい」

 その言葉が、不思議と嬉しかった。

 皐月にとって。

「帰る」という言葉の意味が、今日から少しだけ変わった。

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