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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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20/27

第20話 双子の兄

 

 横浜の午後。

 翻訳事務所には、いつものように異国の言葉が飛び交っていた。

 窓の外からは、港へ向かう荷馬車の音が聞こえる。

 蔵之介は机に向かい、届いたばかりの書類を一枚ずつ確認していた。

 皐月は隣の机で、書類を整理している。

 そんな穏やかな時間だった。

 突然。

 入口の扉が開いた。

 カラン、とベルが鳴る。

 皐月が顔を上げた。

「いらっしゃいませ……」

 そこに立っていた人物を見た瞬間。

 言葉が止まった。

「……朔弥?」

 桜庭朔弥。

 皐月の双子の兄だった。

 朔弥は少し疲れたような顔をしていた。

 けれど、その瞳だけは昔と変わらない。

「皐月」

 懐かしい声だった。

「久しぶり」

 皐月は立ち上がった。

「どうして……ここに?」

 朔弥は事務所の中を見渡し、それから蔵之介へ向き直った。

「白鷺さん」

「はい」

「妹がお世話になっています」

 そう言って、朔弥は深く頭を下げた。

 蔵之介も立ち上がる。

「こちらこそ。皐月さんには助けてもらっています」

「そうですか」

 朔弥は皐月を見る。

 その視線には、どこか安心したような色があった。

「……よかった」

「え?」

「いや」

 朔弥は首を横に振った。

「ここへ来て正解だったと思っただけだ」

 皐月は兄の顔をじっと見つめた。

 桜庭家にいた頃。

 朔弥もまた、父から厳しく能力を求められていた。

 残響視を持つ者として。

 役に立つ情報を見つけろ。

 政治家の過去を探れ。

 重要な人物の秘密を読み取れ。

 けれど。

 朔弥の力は不安定だった。

 見えるものが、いつも正しいとは限らない。

 そのため、父から何度も「役立たず」と言われていた。

 そんな兄が。

 どうして、ここへ?

 皐月は尋ねようとした。

 だが、朔弥は先に口を開いた。

「皐月。少し外で話さないか?」

 その声が、いつになく真剣だった。

 皐月は蔵之介を見る。

 蔵之介は静かに頷いた。

「行ってきてください」

「ありがとうございます」

 皐月は上着を羽織った。

 兄妹は並んで事務所を出た。

 ◇

「横浜って……すごいな」

 しばらく歩いたところで、朔弥が呟いた。

 皐月は笑った。

「初めて来たの?」

「ああ」

 朔弥は周囲を見回している。

 洋装の人々。

 異国の商人。

 馬車。

 煉瓦造りの建物。

 港から聞こえてくる汽笛。

「桜庭の屋敷とは、まるで別の国みたいだ」

「私も最初はそう思ったわ」

 皐月は笑った。

「ここには、いろんな人がいるの」

「……自由そうだな」

 朔弥の言葉に、皐月は少しだけ胸が痛んだ。

 兄もまた、あの家に縛られていた。

 二人は一軒の喫茶店に入った。

 店内には珈琲の香りが漂っている。

「何を食べる?」

 皐月が尋ねる。

 朔弥はメニューを眺めた。

「これは?」

「アイスクリームよ」

「……冷たいのか?」

「ええ」

「食べ物なのに?」

 皐月は思わず笑った。

「食べてみれば分かるわ」

 しばらくして、二人の前にアイスクリームが運ばれてきた。

 朔弥は恐る恐る匙ですくう。

 口に入れた瞬間。

 目を見開いた。

「……!」

「どう?」

「冷たい」

「でしょう?」

「甘い」

 皐月は笑いを堪えきれなくなった。

「そんなに驚くこと?」

「いや……」

 朔弥はもう一口食べる。

「こんなものがあるのか」

 その表情を見ていると、皐月は昔のことを思い出した。

 幼い頃。

 二人でこっそり菓子を食べたことがあった。

 父に見つかれば叱られるから、物陰に隠れて。

 あの頃も、朔弥はこんな顔で笑っていた。

「……兄様」

「なんだ?」

「昔も、こんなふうに笑っていたわね」

 朔弥の手が止まった。

 そして、小さく笑う。

「お前もな」

 二人の間に、ほんの少しだけ昔の時間が戻った。

 だが。

 朔弥の表情は、すぐに変わった。

「皐月」

「なに?」

「本題を話す」

 声が低くなる。

 皐月も匙を置いた。

「父のことだ」

 胸がざわついた。

「……お父様?」

「ああ」

 朔弥は周囲を確認する。

「父は、お前が残響視を発現させたと考えている」

 皐月の呼吸が止まった。

「どうして……」

「白鷺屋に女中を送り込んでいた」

「……!」

「お前の様子を探らせていたらしい」

 皐月は言葉を失った。

 自分が何も知らない間に。

 桜庭家は、ずっと自分を見張っていた。

 朔弥は続けた。

「お前が客の心を読んでいるように見えた、と報告があったそうだ」

「……私の残響視を」

「そうだ」

 朔弥は拳を握った。

「父は、お前を連れ戻そうとしている」

 皐月の胸に、冷たいものが落ちた。

「どうして……」

「決まっている」

 朔弥は皐月を真っ直ぐ見た。

「お前の残響視を利用するためだ」

 皐月は唇を噛んだ。

「何に……?」

 朔弥はしばらく黙っていた。

 そして、低い声で言った。

「父は、お前の力を使って、外交に関わる人間たちの秘密を探ろうとしている」

 皐月の顔から血の気が引いていく。

「……そんな」

 皐月は目を見開いた。

 周囲では、客たちが笑っている。

 珈琲を飲む音。

 食器が触れ合う音。

 何も変わらない日常。

 なのに。

 皐月の世界だけが、一瞬で凍りついた。

「私を……そのために?」

「そうだ」

 朔弥の目には、怒りが浮かんでいた。

「だから、身を隠せ」

「でも……兄様は?」

「俺のことはいい」

「よくないわ」

 皐月は首を振った。

「兄様も桜庭家の人間でしょう?」

「だからこそ、分かるんだ」

 朔弥は苦しそうに笑った。

「父は、目的のためなら誰でも切り捨てる」

 そして。

 皐月の手を強く握った。

「皐月」

「……はい」

「絶対に、桜庭家へ戻るな」

 その声は震えていた。

「父は、お前を……お前の残響視を利用しようとしている」

 皐月は兄の手を握り返した。

 その手は冷たかった。

 けれど。

 初めてだった。

 誰かが、自分の力を欲しがるのではなく。

 自分自身を守ろうとしてくれたのは。

「……兄様」

 皐月の目に涙が浮かぶ。

「ありがとう」

 朔弥は小さく首を振った。

「礼なんていらない」

 そして、窓の外へ目を向ける。

 横浜の街は、今日も眩しいほど賑わっていた。

「ただ……」

 朔弥が呟く。

「お前には、あの家とは違う場所で生きてほしい」

 皐月は涙を拭った。

「うん」

 その返事だけは、迷わなかった。

 けれど。

 二人はまだ知らなかった。

 桜庭伯爵の手が。

 すでに、横浜へ伸び始めていることを。

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