第19話 桜庭家の密議
桜庭伯爵邸。
その夜、大広間には普段とは違う緊張が張り詰めていた。
重厚な扉は固く閉ざされ、外には人払いを命じられた使用人が立っている。
広間の中央には、大きな円卓。
その周囲を、黒い紋付袴姿の男たちと、洋装に身を包んだ男たちが囲んでいた。
身分も立場も、それぞれ違う。
しかし、彼らには共通するものがあった。
桜庭伯爵に忠誠を誓う者たち。
そして、この国の行く末を裏から動かそうとしている者たちだった。
円卓の中央では、燭台の蝋燭が揺らめいている。
そのわずかな炎に照らされ、白いテーブルクロスの上に古文書が広げられていた。
黄ばんだ紙。
墨で記された古い文字。
その隣には、真新しい書類が何枚も重ねられている。
どの書類にも、桜庭家の印が押されていた。
誰かが古文書をめくる。
「……残響視についての記録は、これで間違いありませんな」
「ええ」
桜庭伯爵が答える。
「桜庭家の血筋に現れる、特殊な力について記したものです」
男の一人が眉を寄せた。
「ですが、朔弥様の残響視は不安定なのでは?」
「その通りだ」
伯爵は冷静に答えた。
「朔弥には、見る力はある。しかし、あまりにも不安定だ。過去と現在が混ざり、本人にも何が真実なのか判断できないことがある」
「では……」
別の男が口を開く。
「皐月様に、残響視の兆しが?」
広間に沈黙が落ちた。
桜庭伯爵は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
その一言に、何人かが顔を見合わせた。
「白鷺屋に忍び込ませた女中が言うには、客の心を読んでいるような気配があったと」
「客の心を?」
「正確には、客が何を求めているのかを見抜いていたらしい」
伯爵は椅子の背にもたれた。
「高価な品を欲しがっている客には、その品を勧める。迷っている客には、別の品を示す。それが不自然なほど的確だったそうだ」
「それだけなら、商売の勘とも考えられます」
「もちろんだ」
伯爵は薄く笑った。
「だからこそ、確証を得る必要がある」
円卓の上に、一枚の書類が置かれた。
そこには皐月の名前が記されている。
「しかし……もし本当に残響視が発現しているのなら」
洋装の男が、声を低くした。
「話は変わりますな」
「ああ」
伯爵の目が、蝋燭の炎を映した。
「我々が長年待ち望んでいた力が、ようやく現れたということだ」
広間に、ざわめきが広がった。
テーブルの上に広げられた古文書へ視線を落とした。
そこには、残響視を持つ者が政治家や軍人、財界人の秘密を知り、それを利用して権力を動かしたという、桜庭家に伝わる古い記録が残されている。
桜庭家は、長い間それを利用してきた。
表向きは名門伯爵家。
だが、その裏では。
人の秘密を握り、弱みを利用し、政財界に影響を及ぼす。
「これまで、我々には決定的な力が足りなかった」
伯爵が静かに言った。
「朔弥では不十分だった」
誰も反論しなかった。
「だが、皐月ならば……」
伯爵の声が低くなる。
「相手の記憶を直接読み取れるほどの残響視を持っているのなら、話は違う」
一人の男が身を乗り出した。
「政治家の秘密を?」
「軍人の動向も」
別の男が続ける。
「財界人の弱みも」
「外交に関わる情報さえ、手に入れられる可能性があります」
ざわめきが大きくなる。
誰もが、その力の価値に気づいていた。
だが。
一人だけ、慎重な表情を浮かべている男がいた。
「しかし、皐月様は桜庭家を離れております」
その言葉に、広間の空気が変わった。
「白鷺屋からも姿を消した」
「横浜へ行ったという話もあります」
「白鷺蔵之介と一緒だとか」
桜庭伯爵の眉がわずかに動く。
「蔵之介……」
その名前を口にした瞬間、伯爵の顔から笑みが消えた。
「余計な男がついているな」
「蔵之介は外国語に長けている。海外との繋がりもある」
「それだけではありません」
男が書類を一枚差し出した。
「横浜で翻訳事務所を始めたようです」
伯爵は書類に目を通した。
「……なるほど」
しばらくして、紙を机へ戻す。
「ならば、なおさら早くしなければならない」
「皐月様を連れ戻すのですか?」
「そうだ」
伯爵は立ち上がった。
蝋燭の炎が揺れ、伯爵の顔に濃い影を落とす。
「皐月は桜庭家の娘だ」
低い声が、大広間に響く。
「そして、もし残響視が発現したのなら――」
伯爵は皐月の名前が記された書類を指で叩いた。
「この国を変えるための、最後の駒になる」
誰も口を開かなかった。
円卓を囲む男たちの顔に、それぞれ異なる思惑が浮かぶ。
野心。
期待。
恐怖。
そして、欲望。
蝋燭の炎が大きく揺れた。
その頃。
横浜では、皐月が何も知らずに笑っていた。
自分が捨てたはずの過去が。
今まさに、恐ろしい形となって動き始めていることも知らずに。




