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残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


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第17話 横浜での暮らし


横浜の朝は、皐月がこれまで知っていた朝とは違っていた。

港から吹いてくる潮風。

荷馬車の車輪が石畳を踏む音。

異国の言葉が飛び交い、洋装の人々が行き交う大通り。

赤煉瓦の建物や西洋風の商館が並び、その向こうには、海の青が広がっている。

明治から桜華へと移り変わる時代。

横浜には、新しいものが次々と集まっていた。

皐月は、その街を軽やかな足取りで歩いていた。

以前の彼女なら、外を歩くときはいつも俯いていた。

誰かに見られている気がして。

誰かに怒られる気がして。

けれど、今は違う。

顔を上げて歩く。

風を受けて歩く。

自分の行きたい場所へ、自分の足で向かう。

皐月は郵便局へ向かっていた。

蔵之介の翻訳事務所から頼まれた書類を届けるためだ。

そして、彼女の姿も以前とは大きく変わっていた。

淡い色の洋装。

動きやすい仕立ての服に、革の小さな鞄。

髪は肩までの長さに切り揃えられ、すっきりとしたボブヘアーになっている。

歩くたびに、毛先が軽やかに揺れた。

鏡を見るたびに、皐月はまだ少し不思議な気持ちになる。

これが、自分なのだろうか。

けれど、その顔に浮かんでいるのは、以前のような怯えではなかった。

溌剌とした表情。

時折、口元に小さな笑みさえ浮かんでいる。

「今日もいい天気ね」

思わず、そんな言葉が口からこぼれた。

それだけのことなのに、皐月は嬉しくなった。

誰かに許可をもらわなくても、好きなことを口にしていい。

笑ってもいい。

歌ってもいい。

自分の髪型だって、自分で決めていい。

そんな当たり前のことが、今の皐月には新鮮だった。

郵便局を出ると、皐月は港の方角を一度眺めた。

大きな船が停泊している。

異国へ向かう船。

その光景を見ながら、皐月は思った。

いつか、自分もあの海の向こうへ行くのだろうか。

まだ、その答えは分からない。

ただ。

未来がある。

そのことだけは、確かだった。

皐月は鞄を抱え直すと、翻訳事務所へ向かって歩き出した。

やがて、一軒の建物の前で足を止める。

蔵之介の翻訳事務所。

まだ小さな事務所だった。

けれど、皐月にとっては特別な場所だった。

ここには、自分の居場所がある。

誰かの妻としてではない。

誰かの娘としてでもない。

桜庭皐月という、一人の人間として。

皐月は扉を開けた。

カラン、と小さな音が鳴る。

その瞬間。

ふわり、と珈琲豆の香りが漂ってきた。

「……いい香り」

皐月が小さく呟く。

事務所の奥には、大きな机が置かれている。

その机には書類が積まれ、窓から差し込む朝の光が紙の上に落ちていた。

そして、その机に向かっている人物が一人。

金髪に碧眼。

異国の青年だった。

青年は静かに書類へ目を通している。

皐月が入ってきたことに気づくと、顔を上げた。

その隣には、洋装の蔵之介が座っている。

蔵之介は椅子から立ち上がる。

そして、皐月を見ると、柔らかな笑みを浮かべた。

「お帰りなさい」

その一言に。

皐月の胸が、ほんの少しだけ熱くなった。

「……ただいま、戻りました」

自然に、そう答えていた。

以前の皐月なら、「ただいま」という言葉を口にすることさえ、躊躇したかもしれない。

けれど。

ここでは違う。

帰ってきてもいい場所がある。

待っていてくれる人がいる。

皐月は笑った。

「郵便局、行ってきました」

「ご苦労さまでした」

蔵之介が近づいてくる。

その視線が、皐月の肩までの髪に向けられた。

「髪も、すっかり馴染みましたね」

「そうですか?」

皐月は毛先に触れた。

「最初は少し恥ずかしかったんです。でも……」

窓から差し込む光を見ながら、微笑む。

「朝の支度が、とても楽になりました」

蔵之介は目を細めた。

「それなら、よかった」

その声は、どこまでも穏やかだった。

皐月は事務所の中を見渡す。

机。

書類。

珈琲豆の香り。

異国の言葉。

港から聞こえてくる汽笛。

そのすべてが、まだ新しい。

けれど、不思議と心が落ち着いた。

「蔵之介さん」

「はい」

「ここから……始まるんですね」

蔵之介は少しだけ考えるように皐月を見つめた。

それから、頷いた。

「ええ」

窓の向こうには、青い海が見える。

その先には、まだ知らない世界が広がっている。

皐月は、その海を眺めながら思った。

もう、過去に戻らなくていい。

割れたものを、無理に元へ戻す必要もない。

新しい人生は。

今、この場所から始まる。

そして皐月は、初めて自分の意思で、その一歩を踏み出した。

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