第16話 旅立ちの朝
翌朝。
障子の向こうから、淡い朝の光が差し込んでいた。
昨夜の雨が嘘のように、空は静かだった。
けれど、皐月の胸の中には、まだ昨夜の雨音が残っている。
番傘の下。
蔵之介と並んで歩いた道。
「横浜に行きませんか」
そう言われたとき、皐月は初めて、自分の未来を自分で選んでもいいのだと思った。
もう、誰かの言う通りに生きなくていい。
誰かの妻でなくてもいい。
誰かの娘でなくてもいい。
ただ、自分として生きていい。
そのことが、怖いくらい嬉しかった。
皐月は小さな荷物をまとめると、静かに部屋を出た。
白鷺屋で過ごした日々を振り返る。
楽しい思い出は、ほとんどなかった。
それでも、ここで過ごした時間のすべてを憎むことはできなかった。
この場所にいたからこそ、自分が何を望んでいるのかに気づけたのだから。
皐月は一度だけ振り返り、それから座敷へ向かった。
襖の前で、深く息を吸う。
そして、静かに襖を開けた。
幸雄と百合子が座っていた。
皐月は二人の前まで進むと、畳に三つ指をついた。
「お世話になりました」
深々と頭を下げる。
もう、謝るためではない。
最後の挨拶をするためだった。
顔を上げると、幸雄が困惑したような顔で皐月を見ていた。
「……桜庭の屋敷に帰るのか?」
皐月は首を横に振った。
「いえ。実家には戻りません」
百合子が怪訝そうに眉を寄せる。
「じゃあ……どこに行くの?」
皐月は答えようとした。
そのときだった。
廊下から、足音が聞こえてきた。
規則正しく、迷いのない足音。
襖の向こうから声がする。
「失礼します」
襖が開いた。
そこに立っていたのは、洋装の蔵之介だった。
昨日までの和装とは違う。
仕立てのいい洋服に身を包み、髪も整えられている。
その姿は、これから新しい場所へ向かう男の姿そのものだった。
蔵之介は座敷にいる三人を見渡すと、皐月へ視線を向けた。
そして、静かに告げる。
「皐月さんは、横浜に行きます」
幸雄の顔が強張った。
「……横浜?」
「はい」
蔵之介は淡々と答えた。
「私と一緒に来てもらいます」
百合子が驚いたように目を見開く。
「どうして蔵之介さんが……」
「皐月さんが決めたことです」
その言葉に、皐月は顔を上げた。
蔵之介は、誰かに命令するような顔をしていなかった。
皐月の代わりに人生を決めるつもりもない。
ただ、皐月が選んだ道を支えるために、ここへ来てくれた。
蔵之介と目が合う。
昨夜、番傘の下で見た瞳と同じだった。
皐月の意思を、何も言わずに待っている。
皐月は静かに立ち上がった。
「私は……ここを出ます」
声は震えていなかった。
「白鷺屋にも戻りません」
一度、幸雄を見る。
以前なら、その視線だけで身体が強張っていた。
けれど、今は違う。
「桜庭の屋敷にも戻りません」
皐月は胸の前で両手を握った。
「私は、自分で行く場所を決めました」
幸雄は何も言わなかった。
百合子も言葉を失っている。
かつてなら、皐月がどこへ行くかなど、誰かが決めることだった。
父が決める。
夫が決める。
家が決める。
皐月自身には、決める権利などないと思っていた。
けれど。
もう違う。
「横浜へ行きます」
皐月は、はっきりと言った。
「蔵之介さんと一緒に」
蔵之介がわずかに目を細める。
そして、皐月に手を差し出した。
「行きましょう」
その手を見つめる。
大きくて、温かい手。
皐月は少しだけ迷ったあと、その手に自分の手を重ねた。
「……はい」
指先が触れた瞬間、不思議と胸の奥が温かくなった。
もう、戻らなくていい。
割れた皿は、元には戻らない。
一度壊れたものを、無理に元通りにする必要もない。
だったら。
新しい器を探せばいい。
新しい場所で。
新しい人生を。
皐月は小さな荷物を手に取った。
そして、蔵之介と並んで座敷を出る。
廊下を歩きながら、皐月は一度だけ振り返った。
白鷺屋。
自分が妻として生きていた場所。
けれど、もうここは自分の居場所ではない。
皐月は振り返るのをやめた。
玄関へ向かう。
蔵之介が先に戸を開けた。
朝の光が、二人の前に広がっている。
昨夜の雨で濡れていた道も、今は少しずつ乾き始めていた。
「皐月さん」
「はい」
「横浜では、あなたに仕事をしてもらうつもりです」
皐月は驚いて蔵之介を見る。
「私に……できるでしょうか」
「できます」
迷いのない返事だった。
「あなたは、思っているよりずっと賢い人です」
皐月は目を伏せた。
そんなふうに言われたことは、一度もなかった。
「それに」
蔵之介は少しだけ笑った。
「私は、あなたが自分らしく笑っているところを、もっと見たい」
胸の奥が、じんと熱くなる。
皐月は小さく笑った。
「……私も」
「はい?」
「私も、もっと笑ってみたいです」
蔵之介は何も言わず、ただ優しく笑った。
二人は並んで歩き出した。
昨日までとは違う道を。
誰かに決められた道ではなく。
皐月自身が選んだ道を。
向かう先は、横浜。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
それでも。
皐月はもう、怖くなかった。
自分の人生は、自分で選べる。
そのことを知った朝だった。




