↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響視の令嬢は、割れた夫婦を元には戻さない  作者: 雫石しま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/27

第15話 雨の番傘


 皐月は、濡れたまま歩いていた。

 髪から雫が落ちる。

 着物はすっかり水を吸い、身体に重くまとわりついていた。

 けれど。

 立ち止まる気にはなれなかった。

 一度も振り返らない。

 白鷺屋の看板も。

 幸雄も。

 百合子も。

 あの店で過ごした数ヶ月。

 全部、背中に置いてきた。

 足が痛む。

 雄一に木の棒で叩かれた場所が、歩くたびにずきずきと疼いた。

 それでも、歩いた。

 どこへ行けばいいのか。

 何をすればいいのか。

 何も決まっていない。

 ただ。

 もう戻らない。

 それだけは、はっきりしていた。

     ◇

 道沿いの用水から、蛙の鳴き声が聞こえてきた。

 けろ、けろ、と。

 どこか間の抜けた鳴き声。

 その向こうでは、柳の枝が風に揺れている。

 細い枝が雨に濡れ、皐月の頭上でさらさらと揺れた。

 町を行き交う人々が、濡れた皐月を振り返る。

 けれど。

 皐月には、もうそんなことを気にする余裕はなかった。

「……寒い」

 初めて、小さく呟いた。

 身体が震える。

 けれど、胸の奥は不思議なほど静かだった。

 ――離縁。

 とうとう、本当に終わった。

 幸雄の妻ではなくなった。

 そう思うと。

 胸の奥から、何かが抜け落ちたようだった。

 悲しい。

 怖い。

 これからどうすればいいのか分からない。

 それでも。

 心のどこかに、ほんの少しだけ。

 安堵があった。

「……私」

 皐月は立ち止まった。

「どこへ行けばいいのかしら」

 答えてくれる人はいない。

 桜庭家には戻れない。

 戻ったところで、待っているのは父の冷たい目だけだ。

 白鷺屋にも戻れない。

 いや。

 戻りたくない。

 そのとき。

 ふと、一つの場所が頭に浮かんだ。

 ――横浜。

 蔵之介が言ってくれた。

 横浜へ来ませんか、と。

 その言葉を思い出した瞬間。

 皐月の胸が、わずかに熱くなった。

「……横浜」

 その名を口にした。

 すると。

 ぽつり。

 頬に雨とは違うものが落ちた。

 涙だった。

     ◇

「皐月さん」

 声がした。

「……?」

 皐月が顔を上げる。

 目の前に、一人の男が立っていた。

 黒い着物。

 そして。

 皐月の頭上に差し出された、一本の番傘。

「……蔵之介さん」

 蔵之介だった。

「どうして……」

「探しました」

「私を?」

「ええ」

 蔵之介は静かに頷いた。

「店へ戻ったら、あなたが出ていったと聞いたので」

「……」

 皐月は俯いた。

「私……」

「はい」

「離縁されました」

 蔵之介の顔から、わずかに笑みが消える。

「そうですか」

「はい」

 皐月の声が震える。

「もう、白鷺屋には戻れません」

「戻る必要はありません」

「……え?」

 蔵之介の声は、穏やかだった。

「あなたが戻りたいと思わない場所へ、戻る必要はないでしょう」

 皐月は顔を上げた。

「では……」

 言葉が詰まる。

 蔵之介は、皐月の濡れた姿を見つめた。

 髪から雫が落ちている。

 唇も震えている。

 それでも、目だけは以前とは違っていた。

 怯えていない。

 迷いながらも、自分の足で立っている。

 蔵之介は、もう一度尋ねた。

「皐月さん」

「はい」

「横浜に行きますか?」

 皐月は、迷わなかった。

「はい」

 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。

「……行きたいです」

 蔵之介が、静かに息を吐いた。

「そうですか」

「はい」

「本当に?」

「はい」

 皐月は頷いた。

「私は、白鷺屋には戻りません」

「……」

「桜庭の屋敷にも戻りません」

 その言葉を口にした瞬間。

 胸の奥に、長い間絡みついていた何かが、ほどけていくような気がした。

「もう……誰かに決められた人生を生きるのは嫌です」

 声が震える。

「私、自分で決めたい」

 蔵之介は黙って聞いていた。

「どこで暮らすのかも」

 涙が頬を伝う。

「何をして生きるのかも」

 皐月は拳を握った。

「誰の妻になるのかも……」

 そこまで言って。

 皐月は言葉を失った。

 蔵之介が、静かに傘を持ち直す。

「では」

 優しく言った。

「横浜へ行きましょう」

「……はい」

「あなたが望むなら」

「はい……」

 その瞬間。

 張り詰めていたものが、全部崩れた。

「……うっ」

 皐月の肩が震える。

「皐月さん?」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい」

「でも……」

 涙が止まらなかった。

 悔しかった。

 悲しかった。

 怖かった。

 ずっと我慢していた。

 怒鳴られても。

 笑われても。

 冷たく扱われても。

 自分が悪いのだと思っていた。

 だから泣くことさえ、我慢していた。

 けれど。

 もう。

 我慢する必要はない。

「……私」

 皐月は震える声で呟いた。

「ずっと、苦しかった……」

 蔵之介は何も言わなかった。

 ただ。

 番傘を少し傾ける。

 雨が二人にかからないように。

「……怖かった」

 皐月の涙が次々と落ちる。

「誰にも必要とされないと思っていました」

「……」

「何をしても駄目だって……」

 そして。

 皐月は、とうとう堪えきれなくなった。

 蔵之介の胸に顔を埋める。

「……っ」

 蔵之介の身体が一瞬だけ固まった。

 けれど。

 すぐに、皐月の肩へそっと手を置いた。

「泣いていいですよ」

 その一言で。

 皐月は声を上げて泣いた。

「……うっ……うぅ……」

 番傘の下。

 雨音に包まれながら。

 皐月は蔵之介の胸で泣き続けた。

 誰かの前で、こんなふうに泣いたのは初めてだった。

 蔵之介は何も急かさなかった。

 ただ、静かにそこにいた。

     ◇

 やがて。

 皐月の涙が少しずつ収まってきた。

「……すみません」

「だから、謝らなくていいと言ったでしょう」

「はい……」

 皐月は赤くなった目で蔵之介を見る。

「蔵之介さん」

「はい」

「私……本当に横浜へ行ってもいいんですか?」

「もちろんです」

「迷惑では……」

「ありません」

 即答だった。

「むしろ」

 蔵之介は少しだけ笑った。

「あなたが来てくれるなら、心強いです」

 皐月の胸が温かくなる。

「……ありがとうございます」

「こちらこそ」

 蔵之介は番傘を差し出した。

「帰りましょう」

「どこへ……?」

「今夜泊まれる場所を用意します」

「……はい」

 皐月は番傘の柄を握った。

 もう。

 白鷺屋へ戻る必要はない。

 桜庭家へ戻る必要もない。

 自分の人生を、自分で選ぶ。

 皐月は蔵之介と並んで歩き始めた。

 用水では、相変わらず蛙が鳴いている。

 柳の枝が風に揺れている。

 雨はまだ降っていた。

 けれど。

 番傘の下には、もう冷たい雨は届かなかった。

 そして皐月は初めて。

 自分の意思で、新しい人生へ向かって歩き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。