第15話 雨の番傘
皐月は、濡れたまま歩いていた。
髪から雫が落ちる。
着物はすっかり水を吸い、身体に重くまとわりついていた。
けれど。
立ち止まる気にはなれなかった。
一度も振り返らない。
白鷺屋の看板も。
幸雄も。
百合子も。
あの店で過ごした数ヶ月。
全部、背中に置いてきた。
足が痛む。
雄一に木の棒で叩かれた場所が、歩くたびにずきずきと疼いた。
それでも、歩いた。
どこへ行けばいいのか。
何をすればいいのか。
何も決まっていない。
ただ。
もう戻らない。
それだけは、はっきりしていた。
◇
道沿いの用水から、蛙の鳴き声が聞こえてきた。
けろ、けろ、と。
どこか間の抜けた鳴き声。
その向こうでは、柳の枝が風に揺れている。
細い枝が雨に濡れ、皐月の頭上でさらさらと揺れた。
町を行き交う人々が、濡れた皐月を振り返る。
けれど。
皐月には、もうそんなことを気にする余裕はなかった。
「……寒い」
初めて、小さく呟いた。
身体が震える。
けれど、胸の奥は不思議なほど静かだった。
――離縁。
とうとう、本当に終わった。
幸雄の妻ではなくなった。
そう思うと。
胸の奥から、何かが抜け落ちたようだった。
悲しい。
怖い。
これからどうすればいいのか分からない。
それでも。
心のどこかに、ほんの少しだけ。
安堵があった。
「……私」
皐月は立ち止まった。
「どこへ行けばいいのかしら」
答えてくれる人はいない。
桜庭家には戻れない。
戻ったところで、待っているのは父の冷たい目だけだ。
白鷺屋にも戻れない。
いや。
戻りたくない。
そのとき。
ふと、一つの場所が頭に浮かんだ。
――横浜。
蔵之介が言ってくれた。
横浜へ来ませんか、と。
その言葉を思い出した瞬間。
皐月の胸が、わずかに熱くなった。
「……横浜」
その名を口にした。
すると。
ぽつり。
頬に雨とは違うものが落ちた。
涙だった。
◇
「皐月さん」
声がした。
「……?」
皐月が顔を上げる。
目の前に、一人の男が立っていた。
黒い着物。
そして。
皐月の頭上に差し出された、一本の番傘。
「……蔵之介さん」
蔵之介だった。
「どうして……」
「探しました」
「私を?」
「ええ」
蔵之介は静かに頷いた。
「店へ戻ったら、あなたが出ていったと聞いたので」
「……」
皐月は俯いた。
「私……」
「はい」
「離縁されました」
蔵之介の顔から、わずかに笑みが消える。
「そうですか」
「はい」
皐月の声が震える。
「もう、白鷺屋には戻れません」
「戻る必要はありません」
「……え?」
蔵之介の声は、穏やかだった。
「あなたが戻りたいと思わない場所へ、戻る必要はないでしょう」
皐月は顔を上げた。
「では……」
言葉が詰まる。
蔵之介は、皐月の濡れた姿を見つめた。
髪から雫が落ちている。
唇も震えている。
それでも、目だけは以前とは違っていた。
怯えていない。
迷いながらも、自分の足で立っている。
蔵之介は、もう一度尋ねた。
「皐月さん」
「はい」
「横浜に行きますか?」
皐月は、迷わなかった。
「はい」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「……行きたいです」
蔵之介が、静かに息を吐いた。
「そうですか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
皐月は頷いた。
「私は、白鷺屋には戻りません」
「……」
「桜庭の屋敷にも戻りません」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥に、長い間絡みついていた何かが、ほどけていくような気がした。
「もう……誰かに決められた人生を生きるのは嫌です」
声が震える。
「私、自分で決めたい」
蔵之介は黙って聞いていた。
「どこで暮らすのかも」
涙が頬を伝う。
「何をして生きるのかも」
皐月は拳を握った。
「誰の妻になるのかも……」
そこまで言って。
皐月は言葉を失った。
蔵之介が、静かに傘を持ち直す。
「では」
優しく言った。
「横浜へ行きましょう」
「……はい」
「あなたが望むなら」
「はい……」
その瞬間。
張り詰めていたものが、全部崩れた。
「……うっ」
皐月の肩が震える。
「皐月さん?」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「でも……」
涙が止まらなかった。
悔しかった。
悲しかった。
怖かった。
ずっと我慢していた。
怒鳴られても。
笑われても。
冷たく扱われても。
自分が悪いのだと思っていた。
だから泣くことさえ、我慢していた。
けれど。
もう。
我慢する必要はない。
「……私」
皐月は震える声で呟いた。
「ずっと、苦しかった……」
蔵之介は何も言わなかった。
ただ。
番傘を少し傾ける。
雨が二人にかからないように。
「……怖かった」
皐月の涙が次々と落ちる。
「誰にも必要とされないと思っていました」
「……」
「何をしても駄目だって……」
そして。
皐月は、とうとう堪えきれなくなった。
蔵之介の胸に顔を埋める。
「……っ」
蔵之介の身体が一瞬だけ固まった。
けれど。
すぐに、皐月の肩へそっと手を置いた。
「泣いていいですよ」
その一言で。
皐月は声を上げて泣いた。
「……うっ……うぅ……」
番傘の下。
雨音に包まれながら。
皐月は蔵之介の胸で泣き続けた。
誰かの前で、こんなふうに泣いたのは初めてだった。
蔵之介は何も急かさなかった。
ただ、静かにそこにいた。
◇
やがて。
皐月の涙が少しずつ収まってきた。
「……すみません」
「だから、謝らなくていいと言ったでしょう」
「はい……」
皐月は赤くなった目で蔵之介を見る。
「蔵之介さん」
「はい」
「私……本当に横浜へ行ってもいいんですか?」
「もちろんです」
「迷惑では……」
「ありません」
即答だった。
「むしろ」
蔵之介は少しだけ笑った。
「あなたが来てくれるなら、心強いです」
皐月の胸が温かくなる。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
蔵之介は番傘を差し出した。
「帰りましょう」
「どこへ……?」
「今夜泊まれる場所を用意します」
「……はい」
皐月は番傘の柄を握った。
もう。
白鷺屋へ戻る必要はない。
桜庭家へ戻る必要もない。
自分の人生を、自分で選ぶ。
皐月は蔵之介と並んで歩き始めた。
用水では、相変わらず蛙が鳴いている。
柳の枝が風に揺れている。
雨はまだ降っていた。
けれど。
番傘の下には、もう冷たい雨は届かなかった。
そして皐月は初めて。
自分の意思で、新しい人生へ向かって歩き始めた。




